半眼について
半眼というのは余り適切な言葉ではないと思う。他の言葉を探せば、空眼の方がまだ近いような気がする。半眼とは座禅の時の眼の状態のことを意味している。仏像の多くの目は半眼だと言うことだ。薄く瞼を開いて、少し前の床当たりに視線を落としている状態。
半眼の理由として、一般的に言われていることは外の世界と内の世界を同時に見ることだという。私の解釈としては、目には移っているがそれを意識としては見ていない状態が半眼だと思っている。半眼は分りやすいことだが、5感すべてを半眼状態にするのが空の状態。
唯識では眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官に加えて、意も加えて六番目の感覚器官とする。目は機能としては外界が映っているのだが、見てはいないという状態である。耳には音が聞こえているが、聞いていない状態。鼻は匂いを感じているが、匂いを感じていない。
意は心があれこれを感じているが、その感じていることを意識していない状態。座禅では我が身を空洞にするのだから、あらゆる感覚器官が機能はしているが、どの感覚にも意識を集中周させて活性化させることが無い状態を保つ。私には出来ないが、そういう物らしいと言うことは知っている。
目が物を見ているのに、何であると言うような意識はしないと言うことになる。鐘の音が聞こえているのに、何の音がしているのかと言うことは意識しないと言うことになる。感覚に通り過ぎるすべてを通り過ぎるままにして、あらためて何であると言うような、リカするような意識はしないという状態。これを半眼は象徴している。
中でも最も重要な物が心の動きである。意の動きを空にすることである。すべての心に浮ぶ物が通り過ぎている。が、それを意識して思考するようなことが無い状態。心に浮ぶ物を浮ぶままにして、どのこともを考える対象にしないこと。そう考えて努力をしてきたが。なかなか難しい。
そこで私は半眼ではなく、眼を閉じて動禅をしている。これは半眼に至る過程だと思って眼を閉じている。いつかは半眼でやろうと思う。太極拳に於いては、重心の移動がとても重要になる。重心の移動を目を頼らずに行いたい。足を上げて均衡をとるときも、目に頼らないで行いたい。
無意識に目を使ってついバランスをとるだろう。無意識であってもそれをしないようにと思っている。それが空の状態だと思うからだ。それが出来るようになるまで、眼を閉じて行うほかないと思っている。太極拳は半眼で行うのが動禅であれば本来である。
身体の移動自体を無意識に行なわなければならない。そして三半規管も使わないで、身体の安定を保てるようにならなければならない。出来るわけではない、いつか出来るようになりたいと思っている目標である。ただし、不十分でもかまわないと思っている。
ヨガの系統の瞑想法の多くも眼を閉じて行うことが多い。その方が意識の集中できるからだろう。意識が何かに流されてゆくことを重視するようだ。音楽などを流して、その音に聴覚が集中するようにしているのかもしれない。ヒーリングミュージックなどという物がある。
岡田式正座法では眼は軽く閉じて行う。父の方の母は大正時代肺結核になり、生死をさまよったが岡田式正座法をひたすら行い、完治したのだそうだ。正座をしていると力が足にこもってきて身体が跳ね上がってしまうらしい。静かに座っていることが出来なくなり、跳ね上がる。たぶんそれを空中浮遊というのかもしれない。
それを抑えるのが座禅の結跏趺坐という足の組み方になる。座禅の形で身体が跳ね上がることはない。太極拳でも中国風の音楽をかけながら行う。この音楽を聴いていると、中国の太極拳は精神修養の意味は無くなったのだと言うことが分かる。
座禅は意識を空の状態にするのだから、目も当然見ていて見えない状態の半眼と言うことになる。これは本当に難しい物だ。音は聞こえてはいるが聞いていない状態になれているので可能だ。目の方は人間は常に使っている。かなり頼って生きているといえる。それをどう放擲するかである。
集中して考えごとをするとき、人は視覚を閉じている。絵を描くときも実は半眼なのだ。何かを見ているのではなく、何かが目に映る状態で、何も判断をせず、絵を描く状態。いつも絵を描くと言うことが中心にあるので、動禅を行うときも、絵を描くときに心の置き所を見付けている。
風景を前にして絵を描いている。と言って目の前の風景を写しているわけでは無い。半眼で心に、あるいは脳に浮んでくる景色を描く。筆が作り出している風景に従っている。もちろん目に映る風景を写すことから始めることも多い。描いている内に、まったく別の物になることもある。
目に入った一つの色から始まることもある。それを解釈しないで、黄色の色であればその黄色に従って描き始める。それが土であるとか、花であるとか、そういうことは考えない。海に映る月であるとかそういう解釈はしないようにしている。
目は薄めにしているわけでは無い。はっきりと見開いて見ている。しかし、その視覚の置き所が解釈や、認識や、感じると言うことから、解き離れた物として、見ようとしている。ただ在るものを画面の上に作り
出そうとしている。
出そうとしている。
画面にはそ言う心の中のりかるかんが必要なようだ。絶対的に存在はしているのだが、それは心の中に存在しているだけで、眼前にあると言う、現実感とは違う。記憶の中の現実の深さ。見ている世界よりも、凝縮された世界が心の中に漂っている。
心の中の無意識の記憶が絵に現われてくるように描いている。絵に塗られた色や形が、その心象風景のような物を引き出してくる。それが私の風景だと考えて描くことを繰り返している。未だその領域に進んではいない。あくまで目標としていると言うことだ。
先日も小田原に行った時に篠窪に描きに行った。5枚も絵を描いたのだが、篠窪の絵は1枚だけだった。どの絵も実際にある風景であるが、その時見て描いたわけでは無い。見ている風景が心の中にある風景を呼び覚ましてくれているようだ。
心の中にある景色を描く。それは心象風景と言われている物に近いのだろう。具体的にはシャガール絵とか、松本就介の絵もそんな感じがある。どことなくもの悲しさが伴うような場合が多い。私の心の中の景色はあっけらかんとした物だ。
明るい楽観に満ちた絵だ。そうありたいと考えている。自分が楽観に満ちなければ悲しい絵になるだろう。世界は実に悲惨で悲しい物だ。だから心が悲しさで満ちてしまう。しかし、禅の向かう世界は希望の世界だ。世界が救済される姿だ。私はそういう絵が描きたい。