水彩画は細部の総合である。
10号変形。ファブリーアーノロール紙。遠くに竹富島がみえる。木を切り払ってくれたので、この風景が見えるようになった。ありがたいことだ。急に描いてみたくなった。何も考えずにまず一枚目を描いた。
一枚目は気持ちよく描けたのだが、もう一度少し場所を変えて描いてみようと考えている。実は田んぼが見えているのだが、今回は描いていない。昔は海までのすべての場所が田んぼだったらしい。
その田んぼはすべて、川平部落の田んぼだ。崎枝の人の田んぼだと思っていたらそうではなかった。崎枝の人は後から来た人なので、田んぼがなかったのだ。カミラの人達が崎枝の部落を尾根越えで通り越して、田んぼに通っていたらしい。水牛を引いて、通ったと言われていた。そういうことも絵の中に描いてみたいと思う。
絵の中というのは当たり前のことだが、水牛を描くと言うことではない。人の思いも描きたいと言うことだ。
4月28日。2枚目の絵の描き始めの状態。クラシコファブリアーノ中盤全紙。この絵ではグレーを作りそのいろだけで始めた。この絵は位置関係が重要だと思えた。そこでまず位置をはっきりさせようとした。まだこの場所を描くことがおぼつかないので、水墨のように描く必要があった。墨一色なら、入れたい場所に入れることが出来る。同じ場所はこれが2枚目になる。
海との境を少しあげることにした。そして手前に牧場の枯れ草を描きたいと思った。この後ぐらいから他の色を描き始めた。どのくらいの場所に何が来るかを描いている。しかし、この状態の時が案外にその絵の方角を決めているようだ。
絵は細部を積み上げる形で描いて行く。しかし、全体の中でどう位置するかを明確に意識していないとならない。特に水彩画は絵の具の性格上後戻りをしにくい。それがすべてというわけではないが、基本的な技法は前進のみ到達するというものだ。その点では墨絵と大きくは変わらない。
だから、描き初めと言っても油彩画のような後でどうとでもなるからまずは当たりを付けるというような描き方は出来ない。最初の一筆の勢いが最後まで大きく影響をする。これにも常に例外がある。わざわざ、変更して行く痕跡を残しながら描くような場合もある。
絵を完成する方向へまっすぐに進んで描くことがほとんどの場合である。余り試行錯誤をしないと言うことだ。では何が描ければいいのかとなると、見えている世界のすべてである。
田んぼであれば、今何葉期ぐらいでどんな葉の色なのか。水温はどのくらいか。そして、崎枝にある田んぼではあるが、昔から川平部落の人が耕作してきた田んぼだとか。土壌は意外に浸透性が悪い。お米の収量は余り良くないとか。雑草がどうなるかも気になる。
この田んぼに虫が来ると言うことで、冬に草を焼いたらしい。そうしたら、当たりの山に火が移り屋良部半島全体の山火事になってしまった。そのご山には松が植えられたらしい。歴史も風景には籠っている。
あぜ道が実に面白い。何故こんなに複雑な畦なのだろう。地形から来ているだけではない。複雑な人間関係まで想像させる。そんなことを思ってみているとあぜ道が生きているように見えてきた。
風景を見ていると言うことはそうしたすべてを見ているのだ。そのすべてが見えていなければ、風景を描くことは出来ないと考えている。風景を見ると言うことはそういう総合なのだと思う。
この状態が一日目の終わりである。2時間ぐらい描いたところだ。実はこの絵を描き出したところ、下の田んぼで代掻きを始めた。急に水面が広がったのだ。何故今頃代掻きを始めたのだろうか。
石垣の田んぼで今から田んぼをやると言うことはまず無いことである。私が絵を描くために水面を広げてくれたかのようである。描いている内に随分水面が広がった。それで水面を大きくとることにした。
ところが、田植えはしないままである。何故水を入れて代掻きまでしたのだろうか。草が生えて田んぼが荒れるのだけは避けようと言うことかもしれない。
4月30日一応終わった絵。と思っていたのだが、3枚目を描いている内にこの絵の問題に気付き、又持って行って少し描いた。リアルさと絵にすると言うことの関係というか。大げさに言えば、リアリズムの問題を感じてさらに描いた。
対して変わらないと思うが、この最後の所をどう進めたかは記録しておこうと思って写真を載せた。
4月30日の絵の描き出し。クラシコファブリアーノ中盤全紙。この絵は最初から色を使って描きはじめた。天気の良い日だったので、色に惹きつけられたと言うことがある。3枚目なので、頭の中に構成がある。
手順とか、水彩画の技法のようなものはない。そのときやりたいという気持ちに従い描くだけである。そのためにおかしくなると言うこともあるのかもしれないが、絵がおかしいとか、おかしくないというようなことは、自分が描きたいと言う世界観よりは大切ではない。
気持ちよく描きたい気持ちに従う。この絵は回りの木を切り払う合間に描いた。気分が良かった。作業をしては絵を描くというのもいい。絵に張り付いて描くということは少ない。しばらく他のことをやるというのは見ると言うことを深めてくれることがある。
絵は先に進める方向が自由であることが一番である。描けば描くほどどうとでもなる絵が良い絵だ。悪い絵は終わりに従い仕上げをしている。仕上げなけば絵にならないのだろう。
4月30日に描き出した絵。一日目の終わり。調子よく描いているが、かなり危険な兆候も感じた。しかし、この段階では何が怪しいかがよく分かっていなかった。
ここまで描いていて気づいたことがあった。私が観ていると感じているものの先にあると言うものこそ、重要であると言う当たり前のことだ。ところがその重要なものが私には見えていないと言うことに今更ながら気付いた。描くべきものが見えていないのに描いていた。
これはとてもまずいことだ。絵を描いていた。絵を描くのは当たり前のようだが、絵を描くことは私が一番避けようと思っていることだ。自分が見ているものを描くのであり、絵を、つまり出来たものが絵であるように描くのは避けたいことなのだ。
一番大事なところがつかめないために、何故そこが描きたいのかと言うことがつかみきれない。そのためだと思うのが、絵らしきものに進めている。この絵はこの段階でそういう嫌らしいところのある絵になっている。前に描いた絵と比べると分かる。
5月2日にもう一度気持ちを改めて描き進めた。少し回復してきた。それでもまだまだだ。
前の写真から一日描いたのだが、ほとんど進まないで繰り返している。この後、もう少し進んで終わりにした。
風景が分からないと描けないと言うことだ。ダビィンチが解剖をしなければ人間が描けないと考えたことに近い。人間を研究するのがアカデミーであるというのがヨーロッパ人の考えであるなら、風景画を世界観だとするのが東洋の自然観だ。風景とは人間と自然との関わりである。そのすべてが分からなければ絵は描けない。
この土の赤さはどういう土壌であるか。というようなことを知っているか。知らないかでは違うと思っている。
3枚の絵を比べて、描くことでだんだん世界が見えてくると言うことが確認できる。こう言う形でこれからも先に進みたいと思っている。