ギヤマンの水彩画を模写してみた。
ポール・ギヤマン(Paul Guiramand)の水彩画の模写。
ギヤマンの水彩画を見て、学ぶところがあった。水彩画の描き方と言うものはこういうものだと思えた。絵画としていいというのではなく。失礼な言い方で申し訳ない。、水彩というのはこういうものだと思えたのだ。それを確認するために、模写をさせて貰った。
これはいつも水彩人の松田憲一さんの言われていることだと思う。水彩画は音楽であり、調和だということ。和音ともよく言う。説明はそれ以上ないので、何を言っているのかは松田さんの水彩を見て想像するほかないのだが。
水彩らしい描き方をしている奴は水彩人にはいないとも言うことがある。これは言い過ぎであるが。彼が言っていたわけがギヤマンの絵を見ると少し分かる。ギヤマンの絵の洗練された作りは、水彩技法として学ぶところが多かった。
ここにありそうな水彩画技法を学ぶにはやってみるほかない。絵の塗り方なのだと思い、模写してみることにした。絵を模写するなどと言うことは、実に久しぶりなことだが何度かやっている。この前にやってみたのは松田正平の三角島、その後が須田克太の棚田。その前がモランディーの静物。そうかロスコーの色面の絵もやってみた。
こうしてみると結構水彩画の模写をしてみている。水彩の技術はそれぞれの作家が独自に開発している。どの絵も多様で思わぬ技術が潜んでいる。ロスコーは簡単そうで実は一番難しかった。技術を超えないとマチスのような素朴な成り立ちには至れないという意識がある。
以前水彩人だった小野月世さんの絵は私はいつでも描けると話したら、誰も信じなかった。いつもの私の下手な絵を見て、小野さんのような上手な絵が描けるはずがないとみんな思っている。案外器用に描ける。洋蘭の植物画を描いたこともある。これはリアル絵画のようなものだ。
仕組みで描く絵は難しいことはない。もちろん手先の技術は別物であるので、小野さんが人物画自由になればさすがに真似はできない。だから人物を描くべきだといつも言っていた。最近白日会に出すようになり、人物画をやっている。こうなるともう描けるとは私には言えない。
技術を学ぶと言うこともあるが、やってみることで仕組みが分かるということがある。特に水彩画の場合、技術的要素が複雑でやってみなければ分からないということが良くある。ギヤマンの水彩画はやらない限り分からないものがあった。
安野光雅とか、いわさきちひろとかの場合は技術的には簡単な成り立ちでやってみなくても手順が分かる。こういう絵は手先の技術がいかにも巧みで、何度も練習しなければああ描けるわけではない。手先の器用な絵は描きたいとも思わないので余り興味がない。手先の下手な絵でありながらと言うところが面白くなる。下手も絵のうち、上手いは絵の外。
ギヤマンの絵はビリジャン、コバルトグリン、コバルトブルー、アイボリーブラック、ローズマダー、チャイニーズホワイト、。この6色で描いている。難しい筆遣いなどもない。
サイズはF10号である。絵が描かれているのは森の馬である。芸術的な絵画と言うより、代表的なフランスの商業絵画のひとりであろう。アメリカン水彩と呼ばれる一群の作品より、その技術はかなり深い。リトグラフで鍛えられている。模写をしてみて、その技術はすべて可能なものだった。
カトラン、ギヤマン、カシニョールが流行した時期がある。私が学んだ、パリのボザールのザバロ先生も同じ傾向の人であった。たぶん戦前のブリアンションの教室で、ギヤマンはザバロ先生と一緒だったのではないだろうか。ザバロの教室にはギヤマンが来たと言っていたことがあった。
この水彩画はリトグラフのシリーズの原画ではないだろうか。描き方は画面は寝かして描いていること。絵の具は相当に薄い。薄いものをリトグラフのように、7段階ぐらいで重ねてできている。7班刷りのような構造になっている。
原画でないとすれば、リトグラフを作るための実験として描いたものかもしれない。7判刷りになるとしても一回描いたらば、乾くまで待たなければならないから、この絵は2日は最低でもかかる。フランスは乾燥しているときもあるから、そういうときならば丸一日でできる可能性はある。
推測するにシリーズもので同時に沢山描いたのだろうと思う。だから、数日かけて、同時に10枚以上ができたのではないだろうか。それをリトグラフの工房でリトに直す。フランスのこの技術はすごいものがある。
筆は太めのコリンスキーである。たぶんラファエロのものだろう。絵の具は印刷物なので決定的なことまでは分からないが、ニュートンに思える。紙はファブリアーノの粗めと思われる。
舌を巻くほどの技術的な深さがある。一見そう見せていないところがすごい。リトグラフで鍛えているという気がする。同じ色を濃度を変えて重ねて行く表現法は参考になった。
想像していた以上に薄い色を重ねていた。筆遣いがすばらしい。巧みさを見せずに、水の動きを筆で制御しているくらいの扱い。この技術は卓越している。なるほどAquarelle 水である。
こうしてみると私の絵がいわゆる水彩画ではないと言うことがよく分かった。水彩という材料を駆使して、油彩画的な作品を描こうとしている。小野さんに言われた、笹村さんの水彩の考え方はおかしい。今更ながらその意味もよく分かった。
模写をしてみるとより自分の絵というものを考えることになる。どこまでも私絵画に入り込む以外に道はないと言うことだ。私絵画に入り込むために模写をしてみたくなるのかもしれない。
模写をしていてもう一つ気づいたことがある。私の絵の模写は不可能と言うことだ。私自身が私の絵の模写はできない。どうやって描いたのか、不明な点がいくつも出てくる。制作過程を撮影してみているのも、そういうことがある。
完成してしまうと、どういう経過を経てそういう絵になのかが分からないのだ。そのこともあって、撮影してみて手順を確認してみている。ところが、あれこれ飛躍や試行錯誤がある。技法がない。手順というものがバラバラである。
もちろん模写するほどの価値がないと言うこともある。ギヤマンの水彩画は模写をする価値があった。ギヤマンさんいろいろ教えていただきありがとうございました。大いに勉強になりました。