柳田国男の民俗学の想像力
石垣に来て図書館から、柳田国男の沖縄関連の本を借りてきて読んでいる。とても面白い。昔も何度も読んだと思うのだが、改めて石垣で読むと何か違うものがある。日本人が南方の方から、渡ってきた歴史への想像である。過去のことは想像以外できない。歴史学は想像の学問。考古学的異物があるとしても、その先の人の暮らしはあくまで想像である。私が知りたいのは昔の人の暮らしである。昔の暮らしには行って見ることはできない訳だから、想像の世界である。歴史は常民の歴史であると、柳田国男氏は指摘した意味と考えている。日々の暮らしの歴史こそ、必要な歴史である。信長がどうであるかというようなことは、日々の暮らしにはどうでもいいことなのだ。関ヶ原の戦いのときも百姓は戦場の隣で農作業をしていたという話がある。日本人の民俗から想像の輪を広げる事になる。日本人は稲作の歴史と深くかかわりがある。弥生時代にどういう形で日本人は稲作を暮らしの中心として進めたのか。日本人の信仰がどのように稲作と結びついて変化して来たのか。荘園制度と稲作はどのように進められて、その稲作技術の新展開はどう広がったのか。天皇制と水土技術はどのようにかかわりがあったのか。江戸時代の藩制度の中で、すすめられた稲作による住民の固定化は日本全土にどういう形で広がったのか。
全て過去のことは想像の世界である。拾い集められる証拠に基づく想像である。稲作は4段階あると書いている。田んぼを耕作してきたものとして、至極当然なことだが、これほど明確に考えられるのは、柳田国男氏が農水の役人であったからだろうかとおもった。稲作の第一段階は、自然にできた水のたまるような地形に種をまき、田んぼを作る。そうだろうと思う。多分それは河畔である。安定した大河のほとりであったと想像している。大河は季節によって水位が変わる。この水位変化に合わせて、田んぼというものができていったのだろう。その技術が、川のない条件のところにも広がってゆく。絞り水が来るところに田んぼを作る。これが第2段階。そういう稲作の変化と稲を携えた人々移動の経路を想像する。大きな土木工事が必要な稲作が行われるのは、ずっと後になってからだろう。わたしはこの土木工事というものに、天皇家が関わったのではないかと想像している。土木、という当時の水土工事は先端技術である。先端技術は天皇の呪術性を作り出したのではないか。例えば平安京の入り口には噴水がある。思わぬところで突然水を噴き上げる技術は魔術的な効果がある。貴重な水を自由に操る技術がある。
私は江戸時代のことを一番よく想像する。江戸時代の田んぼを想像する。田んぼをやっている内に、江戸時代を飢餓の時代と宣伝した、明治政府の欺瞞性が見えてきた。というか明治維新が切り捨てた世界こそ重要ではないかと考えるようになった。それも想像であるが。自分が田んぼで働いてみた実感である。もし搾取されないのであれば、稲作農家は普通に暮らせる。搾取がひどかったのは、江戸時代より明治時代である。明治の富国強兵のために、農民から集めた税金は江戸時代よりも重いものであった。江戸時代は飢餓の時代ではなかったのではないかという疑問がわいてきた。鎖国した江戸時代の暮らしを、あれこれ想像した。むしろ、日本鶏を作出した技、鶏の飼い方。金魚や錦鯉。今にはない文化を育て上げていた。確かに今のような、ものの豊富な時代ではない。何もない時代ではあるが、必要なもものはすべて自分で作り出す暮らしの豊かさのある時代。イネの苗作りの方法など、江戸時代こそ優れた技術が存在したことに驚く結果であった。それは自分がやってみて、想像できたことである。江戸時代は封建的支配により、稲作技術が広がってゆく。琉球王朝、薩摩、の八重山二重の支配の中で、人頭税の徴収のために八重山にも田んぼが奨励され広がるのではなかろうか。