比叡山延暦寺

   

 

京都で興味がある寺院は、比叡山延暦寺である。行くことができた。おおよそ1200年前に伝教大師最澄の建立した寺院である。日本の国教となった仏教の教育の場である。鎌倉時代までの日本の著名な宗教家はみなここで学んだ経験があるといえるほどだ。天台教学は当時の日本では最先端の学問でもある。浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人。曹洞宗の開祖道元禅師。浄土宗の開祖法然、臨済宗の開祖栄西、浄土真宗の開祖親鸞、日蓮宗の開祖日蓮と、鎌倉仏教の礎を築いた僧たちは、みな延暦寺で学んでいる。学んでそれを乗り越えようと新しい宗派を作る。否定されるために場を提供しているような姿が興味深い延暦寺。最盛期には3000もの寺院が連ねられたというから驚く。そして武力的な集団ともなり、信長には焼き討ちされる。千日回峰行の寺院として私には興味がある。

延暦寺は深山幽谷の地だと、叔父の草家人が言っていた。仏像の修復に行ったのだと思う。道元禅師は14歳で得度をして、延暦寺で仏教を学んだ。延暦寺の修行の中で様々な疑問を持ったのだと思う。千日回峰行のような修業の道と只管打坐の修業とは、どうとせいであまりに異なる。最澄も日本仏教に大きな疑問を持ち、中国に渡り、日本の仏教を根本から変えるようなことを行った。同様に道元も、大事な生きて死んでゆくという疑問をもち中国で学ぶことになる。道元は延暦寺で学んだ時代こそ重要な意味があるはずだと思っている。どのような環境で、何を学んだのか。近代宗教への変貌。只管打坐をどうして生み出されたのか。それは中国からの完全な輸入なのか。あるいは道元的な考案も含まれているのか。回峰行から只管打坐へ。延暦寺を見たから何か分かるというものでもないが。

深い山の中だけある厳しい空気を感じた。修験道的霊山である。京都に近くでありながら隔絶した場所に、修業の地を置く発想がいかにも天台宗の最澄的である。国立佛教大学校が山の中にある。京都の町はずれぐらいにあっても不思議ではないのだが、あえて山の上に作る。中国の寺院は町中にある。伝教大師最澄が中国から戻り、なぜ、比叡山を選んだのだろうか。腐っていた当時の京都の寺院から離れる必要を感じたのだろうか。最澄の行った修業は相当厳しいものであったらしい。なぜ、苦行から仏教が生まれるのか。宗教と苦行の意味。厳しい現実世界。最澄というと、どうしても空海という事になる。一緒に中国に仏教を学びに行った。二人の関係には諸説あるが、空海は京都からさらに遠い和歌山県の高野山に寺院を開くことになる。いずれにしても、修験道的修業は山の中で行われる。修業に専心するためには、山の中に入る必要がある。

比叡山は全く農業的なにおいがない。暮らしのにおいがない。生活のない修行というものありうるのだろうか。天狗は霞を食って暮らす。険しい山の中を駆け回って、人は何になろうというのだろうか。お布施を頂くという修業。衆生とともに仏道を極めようとする。一人の悟りを求めない。衆生の救済のための修業が回峰行。比叡山にはいたるところに「一隅を照らす、これすなわち国宝なり。」という言葉が掲げられていた。それぞれがそれぞれの持ち場で、光となる。光になるという事は、僧侶だけのことではなく、あらゆる人のその生き方こそが光だという意味のようだ。こういう平和主義と、僧兵を多数抱えて大名のようになったという比叡山。宗教というものは実に不思議なのものだ。

 

 


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