水彩人展で水彩画を描く

   

水彩人展の会場の東京都美術館で、今日1時から私は水彩画を描くところを公開する。毎日、二人づつ描いている。今日は私と高橋さんが、1時から2時間行う。水彩画の研究会として、何ができるかという事の一つである。水彩人では目録を作っている。その目録の表紙は全員が手分けをして水彩画で描くことにしている。この目録は200円で売られている。一人が15枚づつ描く。全部で700枚作られる。そもそも、案内状を水彩画で描いて、出していた。それくらいみんな水彩画を描くことが好きなのだと思う。紙を見るとつい手が動いてしまうというような人が水彩画の人には多い。年賀状も水彩画を描くようにしている。楽しいからだ。貰う方は嬉しいばかりでなく、何だろうと思う人もいるのかもしれない。絵はその時の気分のお知らせのようなものだから、文章よりもいいかと思っている。本当は描いたものはいつでも欲しいという人がいたら差し上げたいと思っている。だから毎年1000枚くらい絵を描いているという事になる。

もらってくれた人が少しでも気分が良くなるようなものであれば、それでいいと思っている。今のところ、膨大な数の絵がどうなるのだろうかという状態である。貰ってもらえれば、絵の供養のような気になる。今回も、本当は会場で自分絵を欲しい人に差し上げたいぐらいなのだが、なかなかそういう事も言い出しにくい。もう描いてしまったものは、自分にとっては終わってしまったものだ。描くことでいろいろ済んでしまう。せめて、人に貰ってもらえるような絵が描きたいものだが、自分というものがなかなか厄介なもので、今までの所そこまでの絵にならない。自分というものがもう少しましなものになれば、私の中から絞り出した絵も人様の役に立つのではないかという期待はある。ボナールは一瞥したときに来る美しさをとらえたいと言っている。一瞥したときに見える光の美のようなものがあるという事なのだろう。それはボナールの感性が、ボナールの美に対する反応が、桁外れに優れていたのでその感覚に徹底すれば、絵になったに違いない。

今日は1時から東京都美術館で絵を描かなくてはならない。どんなものが描けるか、とても楽しみでもある。人前で引き出せる自分というものもあるかもしれない。人が見ていると描けないというようなことはない。しゃべりながらでも同じである。ただ、14枚2時間で描くという事は無理だと思う。そこで、もう描き始めてみた。14枚とも広がった風景である。頭の中にあるいつもの風景である。たぶん子供のころ、藤垈の向昌院から眺めた甲府盆地が刷り込まれているのだろう。あの空間の広がり感覚である。そこに、篠窪や名蔵湾やらが織り込まれえ来る。見て描くと言っても頭の中を描いているという事なのだと思う。ボナールが一瞬に捉える美というものも、ボナールの記憶の中にある美というものと、交流する美なのではないだろうか。私の場合それが美なのかどうか揺れ動くが、どちらかと言うと真実というものに近いような気がする。

実は今日朝10時から、都美術館の会場で絵を語る会を行う。最近、絵を語るという事の批判も聞こえてくる。そんなことは絵描きがやるべきことではないというような意味のようだ。絵がすべてだ。語ることで絵にこもるべきものが、消えてゆく。描けないものを語って誤魔化そうとしているのだ。もっともな意見だ。間違っているとは思はない。そいう人は語らなければいいのであり、人それぞれではないだろうか。絵を描くという事は個人行為だと考えている。自分のやり方で人を判断しても仕方がない。自分の絵を言葉化する意味をわたくしが感じてきたという事だ。ここ3日ずいぶん絵を描いた。展覧会の最中なのに絵を描いていた。田んぼが稲刈りなのに、雨続きで絵が描けたという事もある。絵を描くという事は目が絵を描くという事になっていないとできない。手が絵を描く手になっていないと絵は描けない。絵には絵に入る準備がいる。今日2時からの為に、目と手が絵になるように準備だけは出来ている。

 

 

 

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