イラク日報に戦闘が記載
やっぱりイラクでは戦闘地帯に自衛隊はいたのだ。南スーダンでも日報にある戦闘が隠蔽されていた。イラクサモアに自衛隊は派兵されていた。そして、サモアでは戦闘はあったのだ。そのことは当時も報道でも繰り返し言われていた。そのことは国会の質問でも繰り返し言われたことだ。しかし、政府は一切戦闘はないと答えた。そもそも、国連決議のない、アメリカの派兵に、率先して自衛隊を派兵したのだ。この選択が間違っていたことは、イラク大量破壊兵器などなかったことで明確になっている。日本独自にイラクに大量破壊兵器が歩かないかなど、調べられるわけもない。すべてアメリカの言いなりになってイラクに派兵してしまったのだ。この時は小田原でもイラク派兵反対のピースウオークなど行われた。このブログのもとになる、ピースカフェーという通信もこの時に始めた。我々の当時の知識と感覚が正しかったことが今になれば良く分かる。政府と自衛隊は国民の騙していたのだ。
PKOによる自衛隊の派兵は憲法9条を逸脱している。その後の派兵でも、非戦闘地域のはずが、戦争状態に自衛隊は出出撃している。それが軍事同盟国アメリカの要請である。それを断ることで日本の経済的立場が悪くなるだろうという、のが主たる判断なのだと思う。それは政府もそうであるし、国民もそれで支持をするのだろう。その犠牲になっているのが自衛隊員という事になる。自衛隊員は現地から戦闘があるという事を報告をしている。この報告が無視されるのである。自衛隊員一人一人は戦闘地域に自衛隊がいることが憲法違反であることを自覚しているだろう。その問題点を日報という形で主張している。内部の悲鳴のようなものだ。ところがサモアのひげの隊長と呼ばれた、今自民党の国会議員である元自衛官は、サモアでは戦闘はなかった。と相変らず答えている。つまり、自部の部下の目が節穴だと主張しているのだ。
もし、そんな現状把握のできない節穴の隊員で、平和維持活動など出来るのであろうか。あるいは髭の隊長はそれほど現状を把握していなかったという事か。そして恐ろしいことに、その日報は握りつぶされていたのだ。そもそも国民は自衛隊が何をやっているのか、把握しにくい。だから、日報は適時公開される必要があるのだろう。ところが、私も恥ずかしい無知だった。自衛隊の隊員が日報を書いているという事を知らなかった。知らないのだから、公開の要求も出来なかった訳だが、現地の自衛隊員の悲鳴が握りつぶされていたことには怒りがある。自衛隊はこの日報に記されたことを政府にあげなかったのだ。今になり、髭の隊長は戦闘にもいろいろあるなど主張している。頭がずれている。それを判断をするのは自衛隊ではなく、政府である。それが文民統制という事であろう。もし、隊員の言葉の使い方が間違っていて、戦闘という言葉を使ったというのであれば、その時点でそのことを確認すべきだ。
軍隊というものは、命の瀬戸際で行動するものだ。いちいち、遠く離れた政治家である、戦争を知らない政府の判断など聞いていることができないのだろう。まして、平和ボケしているとされる国民の意識とはかけ離れている。こうした中で、現場主義的に行動を自衛隊がしてしまう。ありそうなことだ。文民統制等軍隊に不可能なのではないか。PKO派兵の現実を見ればそのことが明らかになる。歯止めに唯一可能な方法がある。自衛隊が行くところすべてに、報道組織の帯同を義務付ける。そして、逐一現状を国民に伝える。どんな状況の場所で、どんなことをしているのかを国民に直に伝える。自衛隊を危険な状況に陥らせないために、また勝手な行動をとらせないためには、どうしてもそれが必要である。自衛隊員の叫びは無視されるのだ。もちろん日本を自衛するだけはずの自衛隊が、海外の戦闘地域に出かけてゆくという事はあってはならないことなのだが。あってはならないことを、無理やりやるのだから、よほどの歯止めをかけなければならない。