石垣島で2万7千年前の全身人骨 19体

   

沖縄県・石垣島(石垣市)の「白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡」でで見つかった旧石器時代の人骨が、全身骨格がほぼ残った人骨としては国内最古の約2万7千年前のものとみられることが分かった。縄文時代は1万3000年前に始まる。人為的に安置されていたらしい。旧石器時代に人を葬る思想があったことをうかがわせ「墓域を国内で初めて確認した」と説明している。

飛行場の中の調整池に遺跡は保存されている。

 

 白保竿根田原洞穴遺跡で見つかった約2万7千年前のものとみられる人骨(沖縄県立埋蔵文化財センター提供)
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 白保竿根田原洞穴遺跡で見つかった約2万7千年前のものとみられる人骨(沖縄県立埋蔵文化財センター提供)

 これまで最古とされていたのは、沖縄本島南部で発見された「港川(みなとがわ)人」の約2万2千年前。同センターの金城亀信所長は19日の記者会見で「日本の人類史に新たな一ページを刻むことができる重要な発見だ」少なくとも19体分以上の骨があることも分かり、旧石器時代の人骨発掘としては「世界最大級」。

この向こう側あたり思われる場所 案内板などないのでわからないのだが。

日本の南の島には2万7000年という古い時代から人が暮らしていた。縄文時代が始まるさらに1万4000年も前のことだ。今回の発見で日本人のルーツがかなり明確になって来るのではないだろうか。空想では、南の島から、一人また一人と北上してくる人たちがいる。フィリピンに、そして台湾に。台湾からどうやって海を渡るのか、当時の資材と技術で実証実験の航海が試みられている。前回は潮の流れに押し戻され失敗に終わった。風や、潮を十分に把握していなければ、海の民にはなれない。頭の中にそうした自然が完全に入っていた人たちだと思う。舟を操り、漁をしていたはずだ。そして海の潮を知るようになり、遠くまで航海できるようになった。そうした冒険心が人間にはあった。そう出なければ人間は今に続いて居ないだろう。ついに与那国島に、西表島に、そして石垣島に徐々に人が暮らすようになる。生きるという事が冒険であった時代。

日本列島に最初に来た人たちが暮らした場所は今はこんなところだった。

稲作もこうして最初に南西諸島に渡ってきたものだと想像している。全ては海を越えてやってきた。その技術が徐々に北上してきた。そして、弥生期になって、一気に稲作技術と呼べるような方法が確立し、また稲作方法が南下していった。私はこんなイメージを持っている。日本は南西諸島に始まる、水土の国である。このことを忘れてはならないと思う。新しい人が少しづつ、少しづつ渡ってきた。その新しい人を受け入れる力がかつての日本人にはあったことを思い出すべきだ。日本列島は孤立していたわけではない。東アジアの島じまの一つとして、人間の緩やかな交流の中に存在した。今を生きる日本人ができることは、2万7千年前のご先祖を思い、さらに南の島を思い、東アジア全体を思い、世界で一番心豊かな国なることだ。

今はサトウキビ畑と飛行場に挟まれていた。

何故南の島にだけ古い人骨が残るのかは、人がいたからであるが、サンゴ礁で出来た石灰岩の土地では、骨が保存される可能性が高いのだそうだ。南西諸島に初めて日本人は暮らし始めた。このことは日本人が大切にしなければならない歴史だ。日本人は日本列島にやってきた人々だという事である。北から来た人も居ただろう。朝鮮半島から来た人たちもいただろう。日本列島という場所は暮らしやすい場所だったのだろう。徐々に人口が増え、日本人が誕生する。縄文の土偶や土器を見ると、すでに素晴らしい芸術的感性を持つ民族だったことが分かる。それは日本の多様な山、川、海の自然環境の中で、厳しい冬もある四季のある気候のなかで暮らしたことで、文化的な感性が育まれたはずだ。災害の頻発する土地であったことも日本人を鍛えたことであろう。この魅力的な日本列島に徐々に技術を携えた人たちが渡ってきた。争いもあり、融和しながら、稲作技術が広まるとともに日本国が出来上がってゆく。

 

 

 

 

 

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