同調圧力
社会には同調圧力というものが働いている。みんなと同じであることを周囲にたいし、求める社会の傾向のこと。小田原評定が話が長引くことを意味するが、同じになるまで待つという意味だと思う。現状を変えようという事になかなか対応が遅れる。例えば、舟原地域では、よその組で葬儀があるときには、まず組で集まってから出かけるという事を言われた。仕事の帰りに回ろうと考えていたので、直接行ったので理由を問われ、問題だと言われた。時間がなくそれぞれでしか動けないのだから仕方がなかった。葬儀には事前に集まり、一緒に行くという慣習があったようだ。自治会の活動ではよく感じるところで、私の勝手理解で怒られることがままあった。同じ行動でなくてはならないというのである。自治会連合の一泊どまりの宴会の際、集まってからみんなで宴会場行くという事をしなかったため、呼びつけられみんなの前で酔っ払った連合自治会長から強い叱責を受けた。
いわばツレション文化だ。一緒に行かない奴は物わかりの悪い、同調性のない変な奴扱いされる。私はみんなと一緒というのはダメな方だ。みんながラーメンと言えば、うどんが食べたくなる方だ。こういう人間にとって、小田原に暮らして周囲に合わせるのはそれなりの苦労があった。原発事故前までは一応社会的にやる責任があると思っていたので、こういう事も書くことはなかった。今ではもういいやという気分で、よそ者としてここに住み、いろいろ体験した本音を書くことにした。山北から小田原に越そうとしたときに、農家は引っ越しをしない。だから、山北の農業者が小田原に越してきたとしても、農業者とは認めないと。はっきりと農業委員会の決議だと通告を受けた。小田原の農地が養鶏場として使えないことになる。
小田原の農業委員会の人が、事前に山北の私の養鶏場を見に来た。田んぼや農地を見て帰った。そこまでしたうえで、私を小田原の農業者として認めないと決めたというのだ。私は横浜まで行って神奈川県の農政課に相談をした。神奈川県農業会議というところで相談しろという事だった。農業委員会の集まりである。そこに相談したら、それは法律的におかしいという判断だった。人権侵害に当たるので、こちらから指導するという事になった。その結果決定を覆し、小田原の農業者として認められた。仕方ない感じで小田原農協にも入れてもらった。それでも、地域の生産組合に入れてもらうのは、10年以上かかった。山北の農業者になるのには、それほどの時間もかからなかった。法律に基づいてことは進んだ。私は山林を開墾して農地を作った。畑や田んぼになっているのだから、誰が見てもわかる。その土地を基に農業者になった。それを見て小田原ではだめだと認定したのだ。
小田原では差別ジャンパーが10年間着用されていた。差別的な表示がされていたことが変えられなかった。普通は誰かが気になり、指摘があり修正されるだろう。例えば、似た事例で、以前小田原には「めだかの里親制度」というものがあった。この名称が差別的だというので、「めだかのお父さんお母さん制度」に変わった。これなど、私には何が差別的なのかと今でも理解できない。差別に対する認識が不十分なのだと思う。面倒を避ける方が先に来るのだ。神経質になりすぎるというところもじつは同調圧力の裏返しなのだ。なんとなくみんなでやっていることに口をはさめない、圧力がある社会。すでに多くの地方社会は消滅よりは変革を選択している。ところが、東京近郊の微妙なバランスの上にある小田原はまだ変わり切れないでいるという事ではないだろうか。チェンジと言って登場した加藤市長が、同調圧力に巻き込まれ、極めて保守的な市長になっている。ああ地の人は私のような余所者とは違うと思う。この姿こそ、小田原的同調圧力だと思う事がある。