お墓をどうするか。

   

まだ死ぬ気もないし、100まで生きるつもりで入るので32年も先の話ではあるが、お墓をどうしようかと思う。父や母の墓は東京の品川にある、海晏寺にある。明治に土佐から出てきて作った墓らしい。明治時代の先祖が、海晏寺の住職の和歌の弟子であったために、お墓を用意してくれたと聞いている。その墓は今兄の家が引き継いでくれている。そこに私が入ることはできないと、住職は主張していた。少子化の時代に2人兄弟でしかも私の家には子供がいないのだから、そこに入れてもらったとしても何の問題もないと思うが、住職は長男さんお一人の家の方のみがお墓を引き継ぐことができるのですと、決めつけていた。その方が檀家が増えて良いと考えているのだろうか。あるいはお墓を新規に販売できると考えるのだろうか。こういう事ではお墓が増えて仕方がないことになる。私は死んだ後のことだからどうでもいいことだが、要するに後に残された人がどう考えるかがお墓の問題である。

私は両親を、海晏寺のお墓に収めた。共に死ぬまで一緒に暮らしていたから、葬式も出した。それが私にも、兄にも、そのほかの親戚にも納まりが良いと考えたからだ。その後、子供が兄の所に入るので、兄にお墓の後のことはお願いし引き受けてもらった。その意味で私の墓はいらないという事になる。お参りをする人に目印がないという事になる。それの方がむしろいい。目印の墓が放棄されて、ひっくり返り、そのうちお寺の敷石に使われていたりするよりは良いと思う。墓石のような無駄なものは間違ってもいらない。知り合いの記憶にある間は記憶され、そうして忘れ去られてゆくのが良いと思っている。つまり、お墓のことを考えるという事は残りの生き方を考えるという事になる。お墓を考えるという事は必然的に死を考えることになる。詩を考えるという事は、残された生きる時間をどうするかを考えることになる。

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