西表島稲葉の稲作が沖縄で1番

   

沖縄県全体の田んぼ面積は850haで年々減少している。西表島の田んぼの面積は77ヘクタール。以前は現在の4倍はあって、300haぐらいではないだろうか。一反で一家族として、かつては3000家族が自給できたことになる。現在でも770家族が自給できる、自給の島という事になる。人口は2000人で微増傾向。平年の反収量が5俵ぐらいである。私の見た所ところ徳農の田んぼで7俵ぐらい。西表島は世界遺産に向けて自然保護の計画が立てられている。

西表島の唄は日本の最高の唄の一つである。そのことの意味は稲葉の暮らしの聞き書きを読むと、少し理解できるところがあった。西表の原始の暮らしとも思われる暮らしの中に、豊かで特有の文化が感じられる暮らしがあった。里山文化と違う偉大な自然に囲まれた島の文化と言えばいいのだろうか。稲葉における、稲作は沖縄で一番の優れた農法にまで完成されたものだった。西表の深い森が豊かな土壌と水を作り出している。稲作というものが人間の努力に良く応ずてくれる農業の形態なのかがわかる。稲作は人間が暮らしに適合し、努力の甲斐のある農法だ。稲葉の農業は1970年まで行われていた。隣の仲良川中流域では古くから良田があった記録がある。仲良田節が残されている。たぶん、1600年ころには始まっている。久野の田んぼと同じくらいの歴史でないだろうか。稲葉でも田んぼがあったのかどうかは分からないが、存在したと考えた方が自然である。稲葉には全体で20ヘクタールくらいの耕地があったようだ。そして16家族が暮らしていた。(聞き書きを読んでの推測なので正確なものではない。)

その中にとても熱心な後濱さん兄弟がいて、独力で戦後の稲葉の稲作を作り上げたようだ。2万1千坪まで稲作をやったとある。7ヘクタールまでやっていたという事になる。郵便局長の3倍の収入があったと書かれている。その稲作の方法はむしろ、沖縄や離島の農業として他から学ばれるものにまで完成されたものになった。沖縄県1位になったことが2度あった。西表島、西浦川に沿って川を5キロほど島の内部に入ったところに稲葉集落があり、その周囲に田んぼのあった。空撮の映像がUチューブに出ている。千立、祖内という古い集落が西浦川の河口の西側にある。この周辺には田んぼと田んぼだったところがある。電柵が張り巡らされていて、猪の害がひどいという事だった。稲葉の聞き書きではリュウキュウイノシシ猟が盛んで、60頭捕った話が書かれていた。狩猟が盛んで昔は田んぼまでは猪は来なかったのだろう。猪は捕る人が減ったのですごい数になったと言われていた。

稲葉の稲作はほとんど手作業である。手植で手刈りである。これを16戸のユイマールでやっていた。千立、祖内からの出作りもあった。アダンの林の伐採から始めて、徐々に耕地を広げていったようだ。もちろん開墾はすべて手作業である。10年前の空撮の写真ではすでに、稲葉集落は跡形もない。たぶんこのあたりの平地が田んぼだったのではと推測できる場所がある程度だ。棚田になっていたようだ。一枚が意外に広そうである。1970年までは日本が稲作で生活できた時代である。沖縄本島にもまだ田んぼがあった。稲作日本一の表彰が行われていた時代に、機械を使わない稲葉の稲作が沖縄県一になった。つまり豊かな土地であり、豊かな水であったのだ。肥料も農薬もほとんど使わなかったらしい。基本的に機械を使わない江戸時代の稲作であっても、収量的には今より劣るという訳ではなかったという事を証明している。

熱帯の有機農業の稲作は困難と言われるが、稲葉の事例を見るとやり方はある。稲葉で困難だったことは水害。西表では炭坑や林業が明治時代から盛んで、稲葉集落ができるより前にもう少し上流に、稲葉よりもかなり大きな村があった。営林署の集落や、炭鉱の集落があったが、いずれも水害で大きな被害を繰り返し、誰も住まなくなったたらしい。古い時代には、山の中であれ、離島であれ、田んぼが作れるところには人は暮らすことが出来たといえる。明治以前の西表の稲作の状況はよく分からないが、唄に残されたように暮らしの中心にあるものだったことは確かだ。現在、西表島は世界遺産を目指す自然保護の島である。それは島民の気持ちなのかどうかを別にして、動き出している。農業での島起こしと自然保護をどう共存できるのだろうか。

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