恵まれていると思えること

   

人間は欲望は限りない。その人間の欲を利用して、競争に駆り立て勤勉に働いてもらおうというのが資本主義の原理である。欲というものはこれで足れりという事はない。大金持ちの多くはあくなき欲望で生きている。お金がないものは諦めることに慣れる。テレビではスポーツ選手が大金を手に入れたので、贅沢をして若い人が憧れるような存在になりたいと自慢げに発言していた。お金持ちになりたいから頑張るという考えが、当たり前のように語られる時代になった。こうして人間は滅亡に向う。温暖化や原子力はもう止められないだろう。欲望の範囲を決めなければ、競争の果てに人類は滅亡するのも自明の理だ。加速的な科学の展開によって、人間の欲望が人間を滅ぼす時期が見え始めている。それでも、競争に勝たなければならないと信じこんだ人がいる。国際競争に勝つという価値を至上命題として掲げ、一番を目指して、2番では無意味だとして、競争に翻弄される人間。

自給自足の足るは、自分というものの範囲を知るという事である。自分の範囲以上に生産を広げないという事である。自分の生き方として、自分の内部の限界に向かって努力するという事が出来るかではなかろうか。他者と較べない生き方を確立。他者の評価から自分を判断しないという事になる。絵画は市場としては1番以外に要らないかもしれない。しかし、絵を描く事の豊かさは、ひとりひとりのものである。絵を描く豊かさを知る事が出来れば、何にも代えがたい喜びを見つけられる。それは人より上手であるとか、絵が高価に売れるなどという事とは、別のことなのだ。自分の絵を描いて居るという実感が及ぼす喜びほどの物はない。何十年もかけて努力し、頭を使い、やっと見つけられる喜び。その自ら作り出す喜びを知るという事が自給自足である。唯一無二の人間存在としての、自覚した自己を深める喜びほど崇高なものはない。

人間の欲望に際限がないのであれば、最小限の所で自足した方がましである。最小限とはどのくらいのことだろう。お米は一日100グラム。麦は50グラム。卵、ジャガイモ、玉ねぎは1個づつ。後は季節季節の野菜があれば、魚と肉は時々位で何とかなる。とすれば、人間一人100坪の面積で自給自足できる。日本人が1億3500万人だから、自給自足できる450万ヘクタールの耕地面積が日本にはある。耕地面積は年々減っているが、幸い人口の方も減少である。豊かな日本列島である。食糧生産には一日1時間で可能だ。私が今書き残しているようにやればできる。江戸時代からの伝統農業に近代的な科学の成果を加えた循環できる農法で行う。毎日、一時間の農作業を行うという事は、健康体操位の範囲だ。あとは普通に会社に行こうが、絵を描いていようが構わないだろう。もし、日本人が足るという事を知り、競争から離れたとしても、充分人間らしく豊かに暮らせる日本列島である。

30年間かけて、100坪で一人の人間が自給自足できるという事を実証実験してきた。技術が未熟な間は、2時間かかった。それでも体力もさしてない、全くの未経験者が自給自足までたどり着くことが出来た。この自給自足には協働が必要である。ユイマールである。孤立して生きることができるすごい人間もいるだろうが、普通の人間は助け合う事で自給自足が可能となる。ここまで来て見て、江戸時代の日本の百姓がすごい人たちだったのだと実感できた。その素晴らしい自給技術が消え去ろうとしている。近代農業では克服されるべき農法として否定され忘れ去られた。そして国際競争する企業農業によって、完全に忘れられる運命のようだ。それは足ることを知れば、競争する国家には不都合だからだ。競争を止めることを資本主義というものは良くないこととする、運命にある。全体が良くなることはないとしても、志のある者が助け合うしかないという事なのだろう。

 

 - 自給