報道自主規制
国会における高市総務大臣の電波停止答弁の意味は、独裁政治の方角を示している。辛坊治郎氏はこれに対して、放送法について質問すれば、大臣がこのように答えるのは、法律解釈として当然であるから、聞く方がおかしいとラジオで力説していた。それをニュースとして取り上げる毎日新聞は頭が狂っているとまで、ラジオで叫んでいた。なるほどこんな発言が自主規制としては立派なものなのだろう。政府が自分のかかわっている内容の報道に対し、直接意見を述べるのは独裁への道である。報道にかかわるものが、今この時期に行われた高市総務大臣の答弁の意味の重さがわからない事が怖い。放送法第4条に基づく答弁は、どの政権でも同じであるとのんきな解釈をしている。報道にいる人間が時代というものを読み違えている。こうした能天気がお先棒となり報道への静かな弾圧が始まっている。すでに政権の報道への圧力が問題視されている状況である。放送法を安倍政権がどう考えているのかは、何度でも問いただしてゆかなければならないことである。
自民党の中では報道に対して、政府批判の偏りがあるので、経団連に対しスポンサーとして圧力をかけろという意見まで出ている。そして、自民党に放送機関を呼びつけて、事情聴取するという暴挙に出た。この状況下での、高市氏の答弁である。かつてより、報道に対する規制を主張している人物である。国会で答弁を促し、現政権の報道管制の意図を明確にすることは、重要なことだ。そして、予想どおりの答弁をした。報道を委縮させる狙いだ。安倍政権の報道圧力が明確になっており、テレビ局は政府の意図を忖度しはじめた。番組の内容が変わり始めている。日本礼賛ものは政府に気に入られようという意図だろう。政府批判の強いキャスターの入れ替えを各局行う。報道内容はばらつきがあるが、辛坊氏のような発言は随所にみられるようになってきている。テレビ局の内部でも、様々な人が存在するとは思うが、かなり圧力に屈している印象がある。フリーのキャスターは今回の報道圧力に警鐘を鳴らしている人が多いいのは、テレビ局内で自給な発言ができない状況を感じる。
報道の使命は批判精神である。問題意識をもって社会に起きている事象を見て行くことが報道の役割である。政府の発言を中心に据えて、そこから左右にバランスをとるという事が、報道の中立ではない。それでは政府の体制翼賛報道になる。報道機関は未来の目標とする社会を描き、社会で起きている事象から現状の問題をあぶり出し、指摘してゆくことが役割である。それは時の政府と方向性が異なる場合もあるだろう。あるいは、経団連の利害とぶつかることもあるだろう。しかし、報道機関としての使命を堅持し、権力にも経済にも負けない姿勢で主義主張を持つことである。そうした報道を持てる国が自由の国なのだ。その意味で、高市発言の中に見える、自民党の目指す独裁的体質がにじみ出ている。この発言の意味の重要性を認識できず、過去の民主党政権の時と同じととらえるバカさ加減が、あるいは意図的な発言が置き始めている。報道の変貌こそ静かに独裁になるという麻生氏の言うやり方である。
放送法はすでにその役割が小さくなっている。本来、電波というものの使用者数が限られていたがために、電波を公共的なものと考えて作られたものだ。しかし、技術革新によって、現在は何十局も可能になっている。この状況では様々な主張を持つラジオ局やテレビ局が可能になっている。しかも、インターネットの登場によって、さらに放送は多種多様になるだろう。報道機関は放送法の廃止を主張しなければならない。放送法がなくなるまでは、この放送をうまく活用して、放送に対する政府の制限を出来得る限り行わせないという、姿勢こそ重要になる。将来的には一切の制限をなくすことが自由の報道のためには必要であり、すべての報道内容は各々の報道機関の意図によって、作られているという前提で、報道を受け止められる社会にならなくてはならない。