自給の生き方は可能性拡大
人口が減少をはじめ、地方の過疎化が進んでいる。これは人類というものの生き残る本能が働いているのだと思う。危うい時代が迫っている。そうであればあるほど、都市に依存して生きることを選択するのが、人間の自己保存本能。田舎で生きることは自立精神が必要なのだ。それはいつの時代でもそういうことだ。そして社会が機械化されるに従い、一人一人の人間には、自分一人で生き抜く能力が失われた。狭い範囲の特定の優れた能力があれば、社会で有用であることのできる時代。総合力よりも、単線的な能力が意味を言う時代。当然、社会は一極集中することになる。自給能力は年々失われている。しかし、社会的状況の方は、自給的に生きる能力がある者には恵まれた環境が用意されている。自給できる土地の入手が、たやすくなった。自給的な暮らしを望む人間の数は、極めて限られている。しかも、その勇気と能力のある人間もさして増えることはないと予想される。
もし、どこかに自給講座というものがあり、自給に必要な能力を教えてくれるのであればそこに行けば、面白く生きることが可能になるであろう。そう思ったのは、那須の非電化工房のメールを読んだからだ。
★非電化工房住み込み弟子・・・・募集中です。募集は4~5名ですが あと1~2名の枠が空いています。住み込み弟子は 非電化工房の運営や建設に携わりながら 自立力を培います。自立力=自給力+自活力+仲間力・・・と非電化工房では考えています。
自給力は独立心が無ければ身につかないが、仲間と協力すれば、半分の力で自給が可能になる。農の会でも仲間で協力することでそれぞれの成長に合わせて、学習することでやってきた。例えば機械など使うのでは自給の名に値しないと考える者もいる。私のように、こだわりは捨てて、やれる範囲でいろいろやって行けばいいといういい加減な考えの者もいる。自給は多様なものだ。一人でやり切れるものはやればいいだけのことだ。自給は人間の生き方のことだから、それぞれの人間が自分流でやるだけのことである。ただ方角として、永続性のあるものでなければだめだ。遺伝子組み換え作物とか、農薬を使う作物は必要としない。自給は循環する自然から学ぶものである。自然を大きく改変せず暮らしを織り込んでゆくものだ。
この時代で言えば、反社会的な生き方と言われる恐れはある。消費をしない。税金を払わない。そして、自分の生き方で自立していて、手に負えない連中と言われかねない。新規就農でもないし、定年帰農でもない。権力の下に生きていない人間とみられる。そこで必要となるのは横の連携だろう。宗教とか、イデオロギーではなく、社会に認知してもらう、表向きの顔が必要である。こういう発想が問題だと言われるのだが。黙って無視してもらえる、ほど良い存在感である。社会運動にしないことだ。目標なども持たないいことだ。経済活動はしないことだ。そういうことで横につながらないことだ。あくまで自給の助け合いという範囲が良い。へらへら、軽めが一番だ。一切の建前もない方が良い。なんとなく、そんな感じで阿吽の呼吸である。自給は技術である。あくまで科学的なものだ。宗教じみた農業教祖のような人物は自給には迷惑だ。そういう者には近づかないことだ。そういう者を作らないことだ。真実を見抜く感性を研ぎ澄ませ、科学的事実だけを見て行けばいい。
非電化工房は藤村さんという方がやられている。科学者である。立派な方ではあるが、教祖的な人ではない。一年そこで学んでも悪い影響なないと思われる。私もずいぶんいろいろの農業研修施設を見てきたが、なかなか難しいものである。教師が10人くらい必要だと思う。一人でそれをやれる人は並みの人ではないので、教祖的になりがちなのだろう。また農業が、というか自然というものはあまりに大きくて、まだまだ科学の分析が届かない事も、教祖を生みやすい土壌になるのだろう。非電化工房で一年学んでみることは、なかなか魅力的なことだが、確か35歳までだったか。