絵は進んでいるのか

   

出品しない房総の里山。

今ひたすら水彩人に出品する絵を描いている。しかし、絵が衰退しているのか、自分の本当のところに向かっているのかが、いつも難しいところだ。絵を水彩人展に出すのは、自分の研究のためである。仲間の絵と並べてみて、自分の絵を冷静に判断したいからだ。水彩人は公募展になってはいるが、私自身の目標は自分の絵に向かうために必要な水彩画の研究会だと考えている。今年の絵は春に、中井の篠窪に通って描いていたころの絵である。なぜか、面白くて春が終わるまで通った。雨の中によく描いた。夏になるにしたがって、同じ場所が面白くなくなった。その場所にある色に惹きつけられなくなった。たぶん、色が単調になって描きたい気持ちが徐々に消えた。それでその後は全くゆかなくなった。だから、秋になったらまた行ってみたいと思っている。渋沢から震生湖を通ってその奥にある集落である。篠窪周辺の景色はどこも面白い。起伏があって、畑があって、集落があって、小屋などがある。普通の野菜畑もあれば、果樹の畑もある。小さな畑が自然に埋もれかかりながら、維持されている。

篠窪の雨。この絵は今はだいぶ描き進んで変わった。

 

戦時中の飛行機による撮影では、このあたり周辺のすべてが小麦畑だった。雑木林も全くない。いくらか木があるのは、鎮守の森だけだった。それが小麦が作られなくなって、野菜畑と、果樹に変わったようだが、結局放棄されるところが増えて以前はもっと畑が減って荒れていた。集落全体で、50戸ぐらいだろうか。お寺もあり、神社もある。昔より集落が広がったようでもない。小さくなったようでもない。最近市民団体などの活動で、だんだん耕作放棄地が減ってきた感じがある。と言ってもやたらごみが捨てられている場所もある。この自然との押し合いへし合いの、畑が面白いのだ。自然に同化したような、畑。自然に身を寄せたような小屋。ただの放棄地だと、単調になるところが、不思議な多様な状況を作り出されている。特に春先は生命感があふれる。1週間通うと違う風景になる。それほど色の変化が進んでゆく。新芽、若葉の色彩ほど、命を感じさせるものはない。命の息吹に惹きつけられているのだろう。

里地里山というが、まさに典型的な日本の里山風景のように思っている。私はもう少し奥深い山村に育ったので、自然はもう少し厳しかった。何とかなる感じではなく、自分がそこに少し無理をして入れてもらっている感じだった。緊張していないと生き抜けない感じが常にあった。しかし、篠窪の空気は柔らかい。その辺でごろ寝をしていても大丈夫なぐらいの気の置けない感じが漂っている。この感じを描きたいと考えている。自給自足できる世界観が少しでも画面に出てくれば。そのように見えているのだから、そのように描けるはずだと思って描いている。自給自足で生きてきた25年の経験が、篠窪をそのような場所であることを、見えるようにしてくれたのだと思っている。身体で覚えたものと、頭で考えていることが綜合されて、里地里山が見えている。だからこれは写真とはかけ離れた世界が見えているということになる。視覚的に見えているだけでなく、頭の中の観念を展開しているという見ている世界ということになる。

手入れの文化というような、日本人の暮らしの有り方が描ければと思う。

 

 

 - 水彩画