稲作にまつわる誤解
稲作にまつわる嘘をよく目にすようになった。例えば、小規模農家の作るお米は、努力をしないので品質が悪い。と言うデマがある。お米の品質を正確に言えば、一番悪いお米は確かに小規模農家の物である。と同時に最高の品質のお米も、小規模農家のお米である。当然のことで、本当に手をかける米作りをやろうとしたら、小規模でしかできない。天日干しのお米が美味しいお米だと言う事は、大抵の農家の人は知っている。自分の家のお米だけは天日干しをするという人がいるくらいだ。良い天日干しをすれば良いお米になるが、手間が掛かり大規模では無理だ。小規模農家は、農薬をじゃぶじゃぶ使う。と言うようなデマも言われる。農薬を使わない農家の大半は小規模農家にあり、また無駄に余計に使うのも、小規模農家である。これは防除が空中散布の様な地域主義であるという事や、農協の方針と言う事もある。小規模農家である私のように日に3回も田んぼに行ってしまう人間もいる。そのくらい田んぼに行くと、何で稲作に農薬がいるのかが分からなくなる。
こうしたうそや間違いが、農業に意見を言う人から出てくる背景は、農業の現状に腹を立てていて、悪意を持って農業の分析に入るからではないか。農業衰退の原因を論理的に見つけ出さなければならない。小さい農家をつぶして、大規模の国際競争力のある農家に集約すればいいという、主張がある。確かに、工業分野で国内の町工場をつぶして、外国の工場に生産拠点を移す方が生産コストが下がると言う事は分りやすい。所が、農業分野では、生産地を移す事が出来ない。日本の農業の可能性を模索する際に出てくるのは、保護されてきた小さい農家を色々分析する事になる。そして、大規模農業にしさえすれば、国際競争力が出てくると言う大雑把な考えになる。これは3つの点で間違えである。1、大規模化が出来る地域は限られている。2、日本の労賃及び土地費用は高い。3、良いお米は手間が掛かり、山つきの小さな田んぼで生産される。
その為に本気でプランテーション農業を考える農業資本は、生産地をベトナムに移すと言う事になる。あるいは外国人労働者自体を受け入れようという考えが出てくる。一部の大規模農家に補助金を集中させて、農地の集約を行う。そして、外国人労働者を研修の建前で導入する。その是非はまた別にするが、そういう稲作農業と、これからの普通の稲作農家は競争しなくてはならなくなる事は確かだ。普通の農家は稲作は辞めてゆくに違いない。そして、農地は放棄されてゆく。過疎地域の山間地は既に放棄されてしまった農地が幾らでもある。限界集落である。稲作という最後の綱も切られて、地域社会が失われてゆく事だろう。これは既に防ぐ事の出来ない流れになっている。今までは魂の意思によって何とか維持されてきた、経済の論理とは別の動機による稲作は終わろうとしている。
こうした、日本の水土に最も大切な中山間地の稲作を失う事は、日本の未来に大きな汚点を残す事になる。経済の論理が優先されれば、今の大半の普通の農家の人達は稲作をやめる事になるだろう。そこで、期待されるのが自給農業者である。一軒の家で食べるお米は100坪あれば十分である。10軒の人達で3反の田んぼをやれば、一日一時間の自給農業になる。この事は、小田原で100軒を超える人達が10年以上、継続してきて見えてきた結果である。農薬や化学肥料は全く使わない。農家の方達の収量を越えている。品質は相当に上等なものだ。自給農業を広げてゆく以外に、今後中山間地の農地は守れない。中山間地の農地の維持は農業とは別の発想で考える以外に不可能なことなのだ。農協が解体されようが、日本でプランテーション稲作の試みが行われようとも、生き残る可能性があるのは、競争経済とは別物の自給稲作だけだと考えている。