江戸時代の実際の事

   

世の中が物騒になって来ると、江戸時代の平穏な暮らしと言うものを思わざる得ない。江戸時代というものが、克服すべき封建社会と言う明治政府の洗脳によって、その良さが軽視されている。いまだ飢饉の時代という思い込みがある。自給的に暮らしてみると、江戸の暮らしは良くここまでと思うほどに、日々の暮らしを洗練させた社会だと思う。例えばその封建制度の象徴である、士農工商という身分制度さえ、実に巧みに構築されていて、唯の序列的身分制度ではない。克服されなければならないものであるのは確かなことだが、分相応の意味は奴隷制とは別の思想がある。現代の能力主義と言う、化け物に支配された能力格差社会と較べた時、果たして、遅れた社会なのかどうか、大いに疑問になる。明治政府のお抱え学者たちが、江戸時代を貶めた事は当然であるにしても、左翼思想家と自称する人たちが、その罠にはまって、江戸時代の封建性を単純批判しているのは、実にチャン茶らおかしい。花田清輝氏はその意味で、江戸時代を否定的媒介として、と言う言い方で評価していた。

実際に、自給農業で鶏を飼ってみると、江戸時代のすごさと言うものが身に沁みる。多分こういう事は自給自足で暮らしてみないと、なかなか理解できないのではないかと思う。生涯何もしないで、金魚のランチュウの作出をして暮らした、いわゆる道楽者の粋な暮らしをもう一度考えてみる必要がある。楽しく暮らすというものが、どういう事であるのか。その道楽の結果である、ランチュウや尾長鶏の作出が、何故出来たのかである。日本の江戸時代だけ、出来た事なのだ。長鳴の鶏を生み出した作出する技術力のすごさには、自然と一体化した暮らしの中にある。そうした、現代社会では、一見どうでも良いような事に、熱中して人生を費やす生き方を見直す必要がある。努力の結果原爆を生みだした人もいる。大学の時に、イトヨの分類に熱中している先生がいた。それ世の中で全く役に立たない学問だからこそ選択したというのだ。役に立たない生き方から、生徒の私は学んだものが大きかった。

平穏で安定した暮らしを送るという意味では、特段の能力など要らない。能力など無くとも、普通に日々を送る事を受け入れる社会。現代の豊かな社会は、会社の奴隷のような身分と言えない事もない。次の社会を組み直す以外に人類に可能性はない。それは、日本だけにできる事だと思っている。日本と言う社会が、究めて特殊に、例えば中東などのような国とは、全く逆の形で、温存され、海に守られて生きた特殊な国と言う事だろう。海に守らられた場所は世界に幾らでもあるが、それを江戸時代のように磨きあげる事が出来た国は無い。琉球弧と呼ばれる地域と、幕藩体制との関係を見ると、全く悲惨な事が行われていたと思うが、その悲惨な現実の中に、人間らしい暮らしと言うものが存在している。琉球国と言う日本の外延に却って日本の本当の所が残されている。例えば石垣島の田んぼと言うものを見つめて行けば、日本の稲作文化と言う物の意味が集約されている可能性がある。

まだ残っているという石垣島の田んぼを見に行きたいものだ。そういう所に日本人と言うものがあるのかもしれないと思っている。歴史資料館みたいなものが一番興味があるのだが、やはり田んぼほど、文化遺産的価値の高いものはない。田んぼを見るとその地域の暮らしが、推測できる。南の島での田んぼの作り方、水の回し方、水田の生き物は違うのだろうか。どれだけ取れるのだろう。強い風は困らないのだろうか。暮らしの様々が見えてくる。そうすれば当然、魚住けいさんの事に至る。10年前には亡くなられた方だが、石垣から日本全土に平和の南風を送ろうとした。しかも、未来の人々と繋ぎ合っての希望である。死んだら天使になって空から平和の風を送ると言われていたそうだ。私もそういう生き方がしたいものだ。

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