地方創生の本質

   

野尻湖からの妙高山 中盤全紙 その昔、皇室の方等が泊まった宿があった。絵描きも多く滞在したらしく、沢山の絵があった。

地方は消滅する所もあれば、にぎわいを取り戻す所もある。それが社会の変化であり、歴史の流れである。別に地方の活性化も、消滅も善悪でとらえることではないと思う。政府が法律まで作って、地方創生などという所に、安倍内閣の政策の方向の矛盾がある。瑞穂の国と言いながら、TPPを推進していることと同様である。政府の発想は、競争社会を根本に置いている。国際競争力を絶対のものとした価値観である。国際競争と地方創生は矛盾がある。競争的価値観を維持したままで地方の消滅が止められる訳がない。にもかかわらず、地方創生と主張するのは、選挙対策と人気取りと考えて置かないと、とんでもないことに成る。内容のある様な政策が出てくるはずもない。バラマキ公共事業の復活と、無目的なお金の提供をするぐらいで終わりだろう。地方創生の為の新しい法律まで作ると言うので、政府の説明を読んでも、具体的に何をしようとしているのかが、さっぱり読めない。

地方と都会とでは、経済地理的条件が違う。その結果として生産の傾向が違う。時代の傾向に合わないものは、人為的にいくら保護しても消えてゆく。安倍政権は既得権益ということを、引きづっている。実際の政策は新しいことというより、すでに存在する大企業を擁護するものが多い。それは第3の矢というものが、新しい事業ということではなかったことでも分る。すでに矢が放たれたとしているとする第3の矢は、地方創生にすり替えられている。都会には次の競争に勝ち抜こうという、新しい事業を模索する企業が集中するのは自然だと思う。企業のことは良く分らないが、例えば、絵描きに成ろうと考えた人は、大抵は都会にでて、画商との接点を求める。どこでだって絵を描くことはできるのだが、都会に出る人がほとんどである。教師をやりながらとか、カルチャーセンターの先生をやりながら奈良地方にも絵を描く人はいる。絵を売って暮らそうと考えれば、都会に出て画商との接点を増やすこと以外に道はない。

ここは発想の転換である。地方から人口が減少するなら、少ないことをおかげさまとして、地方ならではの豊かな暮らしを作り出せばいいはずである。何も、日本中が東京化される必要はない。地方らしく豊かな里山暮らしを、自給的暮らしを再生させればいいだけだ。人口減少を良い機会としてとらえることではないだろうか。農地が広ければ、余裕のある農業が出来る。耕作放棄地が増える。田んぼもこれからさらに放棄されてゆくだろう。長年耕作して、田んぼの土が出来上がった田んぼが、放棄されるのである。里山の状況、河川の状態、そして田んぼへの水路の状態。こういうものが立派に存在しているのもかかわらず放棄されてしまう田んぼがある。最高のお米が作れるはずの田んぼが、国際競争力がないという理由で、止めざる得なくなる。国際競争力の競争の観点がくだらないのだ。のんびりやっている人のお米の価値。こういうものは価格とは縁がない。人家が減れば、水の汚染も減少するはずだ。上部に人の住んでいない田んぼだって見つかるはずである。

地方を大切にするなら、発想を全く変えなければならない。地方に国際競争でない社会を作ることではないだろうか。日本全体としては、経済が本気で行き詰まらない限り、そこまでの転換はできないだろう。そういう最悪のシナリオを考えるならば、自分の暮らしの地場・旬・自給は考えておくことだ。絵を一生描ければいいなら、自分の食べるものは自分で作ることだと考えた。地方には私の様な他所者を受け入れてくれる条件が、初めて生まれてきている。むしろ、過疎化して、消滅の危機にある様な地方こそ、地場・旬・自給の暮らしが、模索しやすくなっている。農の会が、25年前に出来て来た頃は、田んぼを貸してもらうことが出来なかったのだ。貸してもらえても、車等入らない所ばかりだった。ところが今は条件が良くなった。新規就農者が農地の良し悪しを選ぶ時代に成った。地方で自立して生きる。これが地方再生の本質ではないだろうか。

 - Peace Cafe