原発コントロール問題と国会

   

国会では、委員会質疑の中で汚染水について何人かの人が、政府に質問をした。その議論は予想通り表面だけの深まらないものである。こんなことだから、予算委員会のみの総理大臣の出席が政府から提案される。議論を避けることは、民主主義の滅亡である。安倍氏は上手くごまかしているつもりのようだが、コントロール、コントロールと力説しても、外洋からも放射能は検出されている。脱原発が出来ない理由として、1、日本がエネルギー資源が乏しいこと。2、エネルギーの安定供給。3、島国で電気の融通が付かない。などを上げているが、ドイツが可能で、日本にはできない理由がわからない。放射能の問題は、リスクの程度が測れないところに、問題の根源がある。脱原発や汚染水問題が、極私的議論に陥りやすい。どこまでが安全であるかという、国民のコンセンサスのない中での議論だからだ。文明論的な問題点まで、掘り下げて思考できるかである。

はたして、微量の放射性物質なら、海洋に流しても大丈夫だというようなことは、世界の了解を得られるのだろうか。六ヶ所村の核燃リサイクル施設では、すでに汚染水の海洋投棄が行われている。いや、世界中の原子炉で海洋投棄は行われてきた。海というような大きな量にスポイトで落とすようなことだから、現実的には問題は起きない。起きたとしても、自然界にある放射能に比較すれば大勢に影響がない範囲だ。というのが、政府というか、電力会社というか、原子力推進派の人々の、本音なのだろう。一方に、放射能の影響で南足柄はすでに人が住めない地域になったというような講演を行った人の、極論も存在する。この両極の中で、現実の社会は時間を経過している。はっきりしているのは、安倍総理がIOCで発言してしまったことは、やらざる得ない国際公約となっていることだ。どうやって、港湾から外に放射性物質を出さないかである。コントロールされずに出ているのだ。これは言葉のごまかしではだめだ。

世界の人々はこのことで日本人というものを判断することになる。農産物の国際競争力を高めようとする努力さえも、影響を受ける。水というものは海洋に出てゆく。いくら貯め込んでいても、最後は海に流れてゆくことになる。完全に放射性物質を外に出さないということは、もう出来ない状況なのだ。原子力発電を行うということは、そういうことなのだ。事故がなかったとしても、六ヶ所村の原燃リサイクルの排水を考えれば、分ることだ。化学工場でも排出基準というものがある。重金属であっても、排出基準内であれば、工場から流れ出ている。絵を描く絵の具なども、美しい色であればあるほど、精製の過程で汚染水をだす。だからイギリスでは生産できないので、中国に工場を作ったという話がある。一定のリスクを伴うというのが、人間が暮らしてゆく現実なのだ。だから、放射能もある程度は構わないというのではない。放射能は人間が今後ロール出来る技術ではなかったのだ。安全なものに変わるには、10万年という年月が必要なものなど、人間の100年という寿命から考えれば、人間にはコントロールしきれないものだったのだ。

福島原発では遮水壁を、土を凍らせて作ることになっている。凍土壁である。これは失敗すると思う。これでは水は止まらない。国会の答弁では、山側から、原発に向かっていくつもの配管がある。これを維持したまま水を止めるには、鉄板での遮蔽より凍土壁がいいという判断のようだ。山側にかなり深いコンクリートダムを作る以外にないのだが、費用がかかり過ぎるということだ。こうして、費用を惜しんで来たために、事態は深刻度を増しているのだ。東電は活力を失いかかっている。有能な人材が、退社を始めているという。批判ばかりされていれば、辛いことだろう。そうして、現場の事故対策が、外部発注になってゆく。経営破たんしている東電を温存したままでの、事故対策は不可能である。福島事故対策を東電から切り離し、政府の責任で対応する以外方法はない。同時に脱原発の方向以外、人類の道はないということも気付かなければならない。

 - Peace Cafe