社会保障国民会議 最終報告書
社会保障国民会議が首相に最終報告書を提出した。これに先立ち、民主党が3党の取りまとめ会議から離脱した。このことを自民党は無責任だと、民主党は相変わらずだと主張している。マスコミでは民主党の離脱について、意見が少ない。肝心の社会保障の問題が、見えにくくなっている。民主党は自民党公明党の落とし穴にはまった。問題の大半が民主党にあり、国民会議の公正な判断を尊重すべきだという最もらしい話に聞こえる。ところがこの国民会議の答申は内容がない。深刻な財政破綻。医療保険制度の限界。年金制度の崩壊。地域社会の消滅。深刻な社会変化に展望が示されず、まあ老人負担を増加しましょう位の甘い空気が読める。共産党は、「自助」を社会保障の基本にする「自己責任」原則を打ち出し、社会保障への国の責任を後退させる方針を盛り込みました。高齢者の負担強化と給付カットを提起と書いている。言いたい気持ちはわかるが、そのどこが悪いかの説明が必要である。
暮らしの実態に地崩れ的変化が起きている。どこの地域でも地域社会というものが、消えかかっている。たぶん20年先には地域社会というものは、都会のように失われていると考えた方がいい。地域が弱者を支えていた社会。貧しいが故にともいえるのだが、一人暮らしのお年寄りをご近所のものが面倒をみるというような社会、北の方にもめごとがあると言えば、訪ねて無駄だから止せというような宮沢賢治が望んだ社会はなくなった。そして生まれたのが、格差のある個人主義社会である。50年前と比べても、所得格差の大きさは数倍に広がっていることを感じる。アメリカ的正義が、明治以降の富裕層をぶっ壊したのが戦後社会。その後の社会の方角は、経済優先の競争社会である。能力差別を当然とする社会である。弱者を社会問題化しない範囲で、救済して置くという安全弁的社会保障社会である。
地域で生まれ地域で死ねる社会ではなくなっているのに、地域社会への期待が根強くある。その良さと、その仕組みに無理が出てきている社会。社会保障はこのことにどう向き合えるかを、審議してもらはなくては駄目だ。地域に暮らすということが経済の実態を伴っているのであれば、地域の再生は可能である。企業に勤めていて、地域と何のかかわりもない暮らしを65歳まで送り、老後は地域社会の中でということでは、地域社会は成り立たない。私もこの地域に来たのは、50歳だから、偉そうなことは言えない。若い者のが居ない地域もどんどん増えている。一方でそういう社会を推進しながら、社会保障では急に地方に期待しても、無理というものだ。限界集落が増加し、集落が消えてゆく実態に合わせた、社会保障になっていない。それは農業においても、世界との経済競争に負けないためが、優先される。その結果老人農業や、自給農業を押しつぶすことになる。原因を深刻化させておいて、社会保障費の増大を食い止めようとしても無理だ。
本当の意味での公平を求めるのであれば、医療保険の負担に、高額所得者の頭切りがあるようなことがおかしい。1億の収入があるものは、500万円の収入のものの、20倍の保険料を払うべきであはないか。現状ではほぼ同額である。これをいくらか直すと国民会議では提言しているが、弱者負担の増加の前に、根本的に変えてもらいたい。もう一つは、払わない人が極めて多い以上。保険料すべてを税金にすべきだ。税金は今後さらに必要になる。消費税を値上げする以外に道はない。80歳の老人になったら、すべてチャラにして同じ医療を受け、同じようなものを食べ、同じような葬式をして消えてゆこうじゃないか。火葬場までランクがあるような社会は、実に厭らしい。戒名にランクがあっても、仏さんの方ではすべてお見通しだ。