水彩人作品感想
入江英三「北の風景」新同人覚悟宜しく。雪の広々とした情景。晴れているのではあるが、少し不安を感じさせる雲が、広がり始めている。その突然の暗さが雪の丘に反映し始める。澄んだ、水彩の表現が見つけ出されようとしている。巧みな淀みのない筆遣いがいい。今までにない水彩人の登場となってほしい。絵の軽さが、気になる所ではなるが、この軽妙感をいかすことの方が重要。私ならと言う事だが、この上から、薄い透明色をある部分グラッシュする。この単純さが絵の切れと言う事になる気がするのだが。
Tさん「海…Ⅰ」何か出かかっている。この不思議な感じは、表現に近づいた気配がある。風景の持つ気配を描いているのか。どこに行くのだろう。心が閉ざされている印象があるのだ。閉じているのはかまわないことだが、常に先行する弁解が、絵に用意されているような妙な気になる。絵で何をしたいのか。何をしようとしているのか。この辺を明確にしない限り、これ以上進めない気がするのだが。決断、明瞭を求めたい。
Kさん「渚にて」寂寞とした、砂浜と暗示的な工場の煙。テーマ性が強いのだろう。公害を感じさせると言う事か。描法の突き放した感触がその空気をよく表現している。問題は、公害という複雑な世界を、舟と工場の煙で暗示的に表現しているとすれば、随分単純な告発的な世界となりやしないか。却って、舟だけにして、舟の造形とか、古びた様相とか、空気の表情で、より深い問題に迫れると言う事はないだろうか。第五福竜丸とかすかに、ほとんどきえかかっているのだが。
Sさん「黄葉」面白い造形間がちりばめられている。単純化された色と形も相当なものなのだ。しかし、その効果が画面にまで至らないのは、ありきたりの風景という、並木道という形を残したからではないか。例えば、梢の紅葉した葉の塊。そして枝の形、覗く空。このくらいに限定して追及する方が、形の意味が出てくる。上半分、あるいは3分の1の画面であればいい。そして抜ける空間を入れたい。そこまで造形すれば、次の次元が表れる。
Sさん「休息」花壇の絵の方が新鮮な感じがある。テーマが曖昧で絵の世界が安易な感じになっている。舟も描く、川も描く、水の表情も描く。もう少し描く何かに集中して、水を描いたらば、清水だ。と言われるぐらいに水の表情を研究すべきだ。水は自由で多様だ。水を通して色々の事が表現できる。ここで留まれば、ただの描写で終わる。美しさをどれほど感じているのか。この花が美しいと感じたのであれば、もっと華やぎ、喜びが溢れ出てくるはずだ。
Sさん「橋の下から」一段の前進があったと思う。静かな、穏かな空気が絵画として出てきている。この静まった空間の先に描く人間が感じられる。とくに橋の影が長く、水に映る様は魅力がある。よく見て、よく感じて反応する姿勢が出てきている。左奥の青い建物の処理が不自然。多分その下あたりの船も数が多いい。水の存在感が出てきているので、水に意識を集中して描いてみるのがいいと思う。次の作品で大きく飛躍する予感がある。
Kさん「雨の日」雨が降っている。見ているものも濡らすように降りこめている。絵に作者の、停止した視線がある。作者の思いが絵として、画面に反応している。その濃度が、見せてもらうたびに強まっている。この甘い記憶のような世界は共感するものと、反発するものが、居る事だろう。進めば進むほど、深まれば深まるほど、一般的な理解はなくなる、固有の世界がまっているだろう。評価を求めず、自分というものに迫っていってもらいたい。
Iさん「バザール」水彩画である。まさに、水彩画以外の何ものでもない。他の材料では描けない、色の奥行き、情感の直裁な姿。筆触を通して語られる物語。このサイズでなければならない説得力がある。ある重さが語られている。静かではあるが、はっきりと生きると言う事を語っている。絵の不思議。絵は創られるものでなく、絵が生まれると言う事。今回の最高の収穫。
Yさん「春の予感」空気感、空間感。こうしたものが明確になった。ひんやりした皮膚感覚まで伝わってくる。左の木肌がむき出しになったのか、少し赤みを感じさせる1本の木。託されたもの。絵という物を通して伝わるもの。伝えようとするもの。作者が木になっているかのようだ。とすれば、後ろに広がる空間の心細さ。これもよく納得が行く。右側の3本の木は何だろう。この強さが絵に破調を与えているが。破調を与えるものの意味が不明瞭なのかもしれない。絵にはいつもそういうところがある。
Sさん「記憶の森」描くと言う事の切実さ。絵以外では不可能と思われる語り口。重く、とつとつと、時に激しく語られるが。たちまち深い静寂に飲み込まれてしまう。尋常ではない、緊張感。それらが絵という不思議な様式で客体化されている。この人のもっている絵の大きさは、もう少し大きい方が自由を与えられるのかもしれない。あるいは、もっと小さい方が凝縮されるのかもしれない。表現内容と、絵の大きさは、直結していると言う事がある。
Iさん「旧正月」不思議な絵である。構築されてゆく魅力がある。動性がある。色彩が主張している。この人のもつ、植物的人間というような、超生命体のような強さが目を引く。線の意味、色の意味。全てが表現に繋がろうとしている。その強い息遣いが、空転もしている。空転するのが若いと言う事なのかもしれない。50号くらいのサイズであれば、その大きなエネルギーが発揮できたのかもしれない。
Sさん「ジョウロとウッドデッキ」思わず近づいてみたくなる、味わいがある。色がいい。線のリズムがいい。構成が心憎いほど巧み。物の面白さが形となっている。翻ってそれでこの作者はどこにいるのか。ここが装飾との際どい所。綱渡り。危うくなければ近づけないが。このままでも近づけない、のかもしれない。自己否定的、否定する心。
Sさん「花と果物」面白い調子である。抜けがたいその人がそこに居る。実に良いのだがいま一つの歯がゆさが、作者と一緒になって悔しい。描きながらもう一つの突破の試行錯誤が出来ない、描法に陥っている。とても苦労している。画面の構成がぶれている。ゆがみがある。そのために自由が利かなくなっている。決まれば力を発揮する直前にある。見るものはその直前を感じてはくれない。
Iさん「緑陰Ⅰ」筆触の美しさ。筆触から来る親密感。親切さ。思いの込め方。絵としての品が高い。抑制した画面の美しさ。これでだけ絞り込むのは勇気が必要だったと思う。こうした単純な構成では、画面の下が曖昧になりやすい。上部の切れ方も気になる。単純化しながら、変化を求める。単純を際立たせる、演出。そういう人為はいらないとするのだろうが。その複雑さが、人間であり、絵の哲学である気がする。
Tさん「夢のあと」絵に込められているものすごい。伝わってくるものの量が大きい。暗く、辛い思い。思わせぶりや絵空事にならないのだ。絵という物の力を、まざまざと感じた。「夏の別れ」一転して明。所がこの絵の方が、暗さが深い。明るさの中の、危機。記憶喪失したような、ガーンと頭が鳴り響くような気がした。次の絵が見たくなった。
Yさん「夏の終わりに」今回の中で最も美しい色彩を感じた。この瑞々しさは驚異的だ。紙を感じさせる調子。色を生かしきる筆触。巧みさを感じさせない、素朴な塗り心地。
Oさん「高原に咲くヒゴタイ」何とも頭抜けた絵が出現した。童話なのだろう。物語を語りたくて仕方が無いような、「むかーしむかし」と作者が脇で、語りたがっている。ここまで行けば立派なものである。絵というものはいつも枠があるようで、枠を超えたとき面白くなる。挿絵風とか、文学的とか、言うマイナス評価があるが、面白ければそういうものが評価に変わってしまう。
Tさん「チョモランマ峰」面白い絵だ。この風合いは変えがたい魅力がある。素朴画。この人の登場は水彩人の新展開である。是非ともこれで押し切ってもらいたい。
Kさん「蛩」開放されたようだ。作るものを超えた。この一段の上昇は、辛い長い道であったに違いない。迂回していたものが大きければ、その結果はとても深いものとして、表れてくる。間違っていなかった事が何より嬉しい。この絵ができたと言う事は、この絵を超えていかなければならない。この絵を生み出した以上の、自己否定をすることが、もう一段の世界の深まり。こんな事ができたのだから、さらなる深まりを期待できる。