鶏を飼い始めた頃の事
ブログを書き始めて1ヶ月が経った。少なくとも1ヶ月は毎日続けてみようと、思っていました。日記なら既に終わっていたので、不思議な気分です。
一ヶ月目には、鶏を飼い始めた頃の事を書いてみようと決めていました。
初めて飼ったのは「小国鶏」です。まだ学校へ行っていなかった、5歳の時のことです。年を取って、最近のことを忘れても、昔のことはよく覚えている、と言うのは本当で、始めてみた、小国の美しさは今も鮮明に思い出せます。
もう夜で遅かったと思うのですが。彫刻をやっていた叔父(笹村草家人)が突然やってきて、これをお前が飼いなさい。こういう命令がなされたのです。この叔父はその頃、東京芸大の彫刻科の助教授で、勤めで上野に行った際、上野公園でもらってきたと言うのです。この辺の年代と辻褄を合わせてみると、上野動物園で日本鶏の品評会が開かれていたのだと思います。
そこに行き合わせた、叔父は。その頃上野原のそれは山奥に住んでいて、猪や狸を飼っていた、相当に動物好きだったので。日本鶏の看板を見てそのまま、上野動物園に入ったのではなかろうか。
そこで見たのが、戦争中も大事に飼い続けられた、日本鶏だった。叔父は日本と特に土佐が大好きだったので、尾長鶏とか、東天紅には、惹きつけられた筈だ。そこで、是非譲って欲しいと言う事になり、もらったのではないかと思われます。叔父は飼う人を探していたと言っていた。
その下さった方は「小国鶏」も是非飼って欲しいと、言われたのだと思う。品評会の記録を調べると、どなただかわかるのかもしれない。
そこで、東天紅の方は自分が飼って、小国鶏をどうしようか考えた結果。私を思いついたのだろう。
叔父がそのとき私に言ったのは、「この鶏はきわめて貴重なものなのだ、失われそうに成っている。大切に飼わなければ成らない。これを飼う事をお前の役目にするので、しっかり飼うように。」こう宣言したわけです。私に目をつけた原因はよく解らないが、命令を守りそうに見えたのだろう。5歳の子供にそんな命令を下すのもよく解らないのだが、その間、父が私に何か言ったことはなかった。父は草家人に対し、強い対抗心を持っていて、突っ張ってはいたのだが、その時は何も言わなかった。
何が何だかよく解らないけれど、その鶏には強く惹きつけられた、ともかく美しい。貴重の意味もわからなかったが、こんな美しい物を自分の鶏として飼うことができるということが、嬉しくて、天にも昇る気持ちだった。
置いて行ってしまった以上、何とか飼わなければならないということになり。翌朝小屋を作ることから始めた。この後、たぶん100を越える鶏小屋を作ることに成ったが、初めてなので、誰かに手伝ってもらったのだろう。しばらくすると、父が小国鶏の載っている鶏の飼い方の本を買ってきてくれたので、父も私に飼わせたかったのかも知れない。
その鶏は、小国鶏でも、五色と呼ばれる物だった。今では五色小国を見かけることは少なくなったが、羽色の美しさは格別だった。胸の黒は差し毛は全くでない、美しい物だった。足色の黄色もすっきりとしたもので、鉛足が出る、というような事は考えもしなかった。
全く天から降ってきたような形で始まった鶏飼いが、私の生涯の暮らしに大きく影響していた事は、今思うと不思議なような気がする。結局、叔父に感謝しなければならないのだろう。