石垣島農の会始まる。

田んぼから名蔵湾を眺めて。
石垣島に来て次の時代の予兆を感じている。地方に移住者が増えているというようなことだけでなく、競争社会の終わりの予兆である。経済成長が善ということではなく、みんなが等しく生きて行ける世界を求める姿である。
昨日石垣島で有機農業の市民田んぼを始めることが決まった。干川さんと田んぼを巡ってもらった。こここそ市民田んぼに一番向いていると考えていた、名蔵湾沿いの田んぼを、見ていただき水のことなぞ伺った。その田んぼはなんと干川さんがむかし耕作をされていた田んぼであった。
そこがやはり絶好の場所だと言うことが分かり、現在、耕作をされているみやぎ米屋さんに相談に伺った。色々事情をお話ししたところ、一番上の一反5畝あまりの田んぼを使わせてもらえることになった。その足で地主さんのところにもまわり、説明をして了解をしていただけた。すべて、昔からの干川さんの知り合いと言うことで成り立った話である。
2期作目は7月中には始まることになる。それまでに参加者を募集しなければならない。7月初めから苗作りが始まることになる。6月には正式に参加者募集を始める必要がある。先日参加していただいた方にの中にも参加希望者はいるかと思う。八重山毎日新聞に募集記事をお願いしたいと考えている。
石垣島では田んぼはやらないと決めていたのだが、少しでも役立つことがあるなら、やりたいと思うようになった。食糧自給のための有機農業の勉強会をしたいと思う。何故石垣島では収量が低いのか。いろいろのことが分かってくるのではないかと思う。この文章を読んだ方で参加希望者がいれば、コメント欄から申し込んでください。
残念ながら石垣市の行政は富裕層の別荘地を誘致しようという昔のままの発想から抜け出られないで居る。石垣市スーパーシティ構想である。この構想はまるでバブル時代を彷彿させるものだ。新しい時代の石垣島の位置づけを取り違えている。
開発思考一色の開発をして、本土のゼネコンにメチャクチャにされてしまうのだ。何故、こんな古くさい発想しか出来ないのか、情けないというか哀れというか、石垣島のすばらしい文化と環境を理解していないとしか思えない。
今一番遅れてしまっているのが政治である。それは政府から、地方の政治まで、次の時代を見ると言うより、過去の成功事例にしがみついて、足下に押し寄せ始めている、経済成長神話の終焉に気づかないのである。しかし、もう住民の方は政治に関わっても仕方がないという諦めの状態にあるのではないだろうか。
日本の経済成長期は終わったと考えなければならない。世界の経済の流れから見れば、当然の帰結である。人間はそこそこに生活が出来ればそれ以上のものはいらないのである。衣食足りて目指すは精神の豊かさである。貧富の差の無い平等な世界である。
生きて絵が描いて行けるのであれば、それ以上のことは何も必要が無いのだ。特別の富裕層でないとしても、死ぬまで絵を描いていられる。豊かな社会だと思う。貧困層はそうはいかないだろう。食事が十分でない人達がいる社会である。一方に一握りの富裕層が増え始めている。
問題はこの経済の不均衡にある。当たり前に働いて、当たり前に生きて行ける客観的条件は日本の社会にはある。それが出来ないところに政府の金持ち優遇のゆがみがある。既得権益の死守が自民党の党是なのだ。これをぶち破らなければ、日本はより深刻な分断社会に陥るだろう。
石垣島で普通に田んぼをやって、普通に生きていけないのでは何かがおかしいのだ。石垣島でも田んぼの耕作放棄が始まりそうである。田んぼをやっていても普通に暮らすことが困難だからだ。こんなに悲しい状況はあるだろうか。
江戸時代であっても田んぼを普通にやっていれば生きては行けた。今は田んぼを続けることが困難な時代になってしまった。しかも、世界では食糧危機が始まっている。どのように考えてみても、食糧危機はその深刻さをますだろう。
そうした世界情勢の中で、食糧自給率が38%と言う危機的な日本の状況は安全保障上極めて深刻な状況と見なければならない。コロナワクチンを見てみれば分かる。お金があろうとも、ワクチンを簡単には売ってくれないのだ。食料はワクチンどころではない。もし足りなくなれば、その深刻さは想像できないほどの怖さがある。
国の安全保障の基本として、主食のお米だけは十分な確保は政治の責任であろう。石垣島の住民が必要とするお米は石垣島で作れる態勢を取る必要がある。それを制度上保障することが、これからの農政の柱ではないだろうか。
田んぼというものはそれほど重要な農業なのだ。環境的にも、食料的にも、文化的にも、日本人として守り抜かなければならないものだ。日本の右翼は修学院離宮に一度行ってみてもらいたい。天皇が文化によって日本を守ろうとしたものが何かと言うことである。
日本の文化の理想的な形を、庭園として作り上げたのが修学院離宮である。明治政府が西欧のものまねをして作り上げようとした、日本帝国は実に思想の浅い軽薄なものであった。だから、背伸びをした末に戦争に敗れたのだ。今思えば、敗れたことはまだましだったのだろう。
今の時代になっても、アベ政権のように、明治帝国を復活させたいという愚かな政権が登場する。もう全くそうした方向がだめだと言うことを知らなくてはならない。列強と競争してなど言う歪んだ思想は不用なのだ。
日本は文化豊かな国日本として、普通に暮らすことで尊厳を保てば良いのだ。今アメリカと中国が世界の覇権争いである。こんなことはただただ馬鹿げたことに過ぎない。世界一がなんだというのだろうか。アメリカも中国も文化的に見れば、実に寂しい国だ。
金儲けだけを争ってみたところで、人間が生きる一番重要なものには至れないと言うことだ。日本もその哀れな二国に何とか追随したいという程度の政府である。目を覚まして、新しい道を国民ひとりひとりが歩み始めるべきだ。
幸人口減少が進み、地方の農地は空いている。地方では住宅も余り始めている。新しい自分の人生を生きようとするものには実に幸いな時代ではないだろうか。私が若い頃であれば、与那国島に移住して田んぼを始めただろう。与那国島では田んぼの後継者がいなくなり、耕作放棄が進んでいる。行政は受け入れ体制を進めている。
石垣島でも同じことが起こるだろうと想像している。今こそ田んぼを始める人をみんなで支えなければならない。支えると行っても食べれば良いだけのことである。石垣の人は石垣のお米を食べる。この当たり前のことで、石垣の田んぼを守ることが出来る。
地域を守ると言うことはそういうことではないだろうか。少し高いかもしれない。少し美味しくないかもしれない。しかし、そういうことは互いに我慢し、支え合い努力をして行けば解決できることだ。先ずはフードマイレージである。
田んぼがなくなってからでは遅い。