NFTアートの出現

   



田賀亮三「さみしいあなた」F60

 NFTアートとは、唯一無二の形態に処理されたデジタルアート作品という事のようだ。次の時代の主流の絵画の様な芸術の方法になるかもしれない。その将来性が重視されたこともあって、75億円で作品が取引されたというので注目されている。

 10数年間日々記録した写真を、コラージュしたものと言う。いかにもつまらなそうだけど、私アートの一種なのかな。それよりも75億円のインパクトの方が大きい。美術の世界はやはり商品の時代なのだろう。

 自分のことで言えば、自分の描いている毎日の水彩画を写真を撮り、カタログレゾネの形にして、それをNFT化して発売することが出来るかもしれない。例えば、2021年笹村出作品レゾネというような形があるのではないか。

 細かな仕組みについては理解できていないが、10年後くらいにはかなり具体的なものになっているのかもしれない。一つには作品の記録方法になりそうだ。笹村出全作品がNFT化されて、デジタルとして保存される。これなら、美術館のようなところに行けば、あらゆる人の作品がある。という状態が作れる。

 そうした公的美術館の中に記録保存機関があれば、安心して制作できるというものだ。別段自分の作品を残したいという意味よりも、この時代の意味は数百年後にはっきりしてくると思う。その時の資料として、この時代に行われていた芸術作品のことを俯瞰する必要があると思っている。いわゆる表現芸術が衰退し、芸術制作自体に意味を見出すような時代への変化。というような意味で。

 デジタル化の良いところは記録の保存が小さくて、ほぼ無限で、確実という事である。NFTは商品としてできたものだろうが、管理方法と考えれば、さらに有効なのではないか。お願いすれば永久保存してくれる仕組みもできるような気がする。

 私自身は版権という物はないものと考えている。描いている水彩画は誰でもが自由に利用してよい。むしろそうしてくれた方が嬉しいと考えている。自分の為に絵を描いているのではあるが、それをいくらかでも使えると考えてくれる人がいればうれしいと思っている。

 だから、いつか誰かが利用したくなるような作品にまで到達したいと思っている。ただ、私の作品を必要とする人が、同時代に存在するかどうかは分からない。それでも私絵画という芸術行為の時代が来ると考えている。その時に初めて意味を持つのかもしれないとどこかで考えている。

 問題は現在の技術水準では水彩画の場合やや問題がある。デジタル映像だけでは不十分である。現物として、作品を再現できるだけの情報量がなければならない。それは何といっても現物に勝るものはないのだが、ある程度までの再現技術は出来つつある。

 その再現技術に必要な情報をNFTに加えておく必要があるだろう。NFT作品から、原画に近いものが再現できる仕組みである。これが実現するにはまだ、30年くらいはかかるのかもしれない。私が生きている間にギリギリ可能なのかもしれないくらいだろう。

 私はそれを50年前に予測していた。学生の頃そう考えて制作をしていた。未来にそうした世界が出現して、ゴッホもボッチチェリーも宗達も北斎も、笹村出も同列な中で、誰もが自分に必要な作品を選択して鑑賞することが出来る時代が来る。その前提で制作をする必要があると考えていた。

 その50年前考えたことは間違いではなかったと思う。このことで、自由美術の田賀さんと、大議論になったことがあった。それを思い出したので、作品をお借りして展示させてもらった。田賀さんは金沢美大の1期生の人で、どこか東京で制作する金沢系の人のリーダーのようなところがあった。

 思い出したので反デジタル主義だった田賀さんのことを少し書く。田賀さんはフランス語の先生もしていた。アテネフランセの先生だったかと思う。友人がやはりそこに勤めていたという事もあり、親しくなった。最初はやはり金沢美大の庄田常章さんの紹介である。

 田賀さんの三浦半島の家にまで行くほど親しくなった。田賀さんの奥さんが洋ランを栽培していたので、その趣味の関係があった。洋ランではどちらかと言えば私が栽培指導をするような関係だった。あの頃パフィオペディルムに本気だった。交配をするまでになっていた。

 田賀さんの個展会場はいつも若い人たちが、溢れるように集まって、喧々諤々の議論をしていた。水島さんや醍醐さんともそこでお会いした。自由美術に出していたわけではないが、仲間のような気分で加わっていた。毎週のごとく誰かの個展会場で、盛り上がっていたわけだ。

 ある意味私の青春時代という事なのだろう。私もひっきりなしに個展をして、田賀さんも必ず見に来てくれた。もうどちらも画廊自体がないのだが、史染抄ギャラリーと美術ジャーナル画廊である。あの頃は絵画作品を1点主義で考える時代は遠からず終わるという主張は、誰もが認めなかった。認めないどころか、そういう考え方は反芸術的だという事だった。

 田賀さんは金沢の人らしい理論派だった。舌鋒鋭く議論をしてくれた。そんな理屈っぽい絵描きはあまりいない。田賀さんの絵は理屈ではない。不思議な空気が画面に漂っていて、匂いがある。確かにこの匂いは、デジタルアートになると消えるのかもしれない。それでもいろいろな意味で影響を受けたと思う。

 絵画は商品として、投機対象として扱われた全盛期である。デパートで扱うこれから値上がりする若い作家展。というようなものが芸術新潮で特集があった。そこで羽生出という人を知った。その後東京芸大の教授になった。スケタ―ではなく、将棋指しでもなく、絵描きである。出が同じだから記憶した。投機対象としてはどうだったのだろうか。

 何かの製品や制作にそのNFT作品を材料にして展開するという人が、材料として購入するという事もあり得るのではないか。出版社が版権という意味で確保するという事もあるのかもしれない。例えば、江戸時代の風景画というようなデジタル画集を作る材料である。江戸時代にあったのならばの話である。

 もちろんそのNFT作品を印刷物におこして展示するという事もあり得るのではないだろうか。ホテルなどが購入して、装飾に利用するという事もありうるかもしれない。個人が気に入った人の作品を購入して、部屋のあちこちに飾るとか。

 よくわからないところが、原画との関係がどうなるのかという事である。原画が別に存在して、その原画は作家のものなのだろうか。作家はその原画を別に販売するという事もあり得るのだろうか。たぶんこのあたりはまだ整理されていないという事なのだろう。

 そういう事が自分とは関係がないと大半の人は考えて、絵を描いているにちがいない。それがまだ絵描きというものの、それらしい姿だと、思っている製作者も多いいのだろう。然しそれは、19世紀的発想が残っているだけだ。もう全く違うところに絵画は来ている。それが21世紀だとおもう。

 

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