絵を描く感性のこと

   



 絵を描いていると風景には絵としてみると邪魔なものが良くある。あそこの電柱の看板が邪魔だ。あんな所に派手なコンビニがある。京都の笑い話で、京都の風景では国際会議場からの眺めが一番だというのがある。国際会議場が見えないからだそうだ。風景を壊しているものがある。

 私な風景にいらないものがあれば、無いことにして絵を描く。ないと思っているといつの間にか自分の目に映らなくなる。これは訓練した結果の妄想なのだろう。見ないことにすれば消えるものも在る。絵を描く目で凝視しなければ見えないものも在る。こちらの方は少し難しいが、見えないものも見えてくる。

 では肉眼では見なければならないものが、どうすれば見えるようになるか。虫になれば、見えるものも在る。鳥になれば見えるものも在る。人間の視覚は見れるものの幅が狭い。絵描きの眼を育てて、絵を描く自分なら見えるという所まで行く必要がある。

 植物は様々な信号を発している。昆虫はその信号を捕らえて行動している。例えば、葉っぱを食べる虫がいると、植物はここに虫がいるぞという信号を葉から出す。それを鳥が関知して、集まってきて、その虫を駆除するというのだ。

 人間が見えてないから無いと考えるのは、人間の過信である。人間には見えないものが地上には様々溢れている。ナマズが暴れると地震がある。などというのも、魚には感じられる、まだ分からない信号のようなものがあるに違いない。

 宇宙から来ている信号なども、人間には普通見えない。しかし、縄文人には見えたかも知れない世界である。現代人はそうした自然に対する感覚を失ってしまった。江戸時代の農業者に見えていた世界の姿が、現代の農業者の大半が失ってしまった領域があるはずだ。

 絵を描くと言うことはそうした、現代人が失ってしまった感性を磨き蘇らせなければならない。天才というような人には、きっと見えているものがある。絵画は感覚で描くようにとか言うが、現代人の感性は衰えきってしまった。その感性で感じるものなど知れている。これは驚くほどの人間の感性の衰退だと思う。

 見えないものを見えるようになるには仙人の修行がいる。何千日も凝視続ける。中国の絵画修行はそういう物であった。石を凝視して、そこに

 絵を描いていると風景には絵としてみると邪魔なものが良くある。あそこの電柱の看板が邪魔だ。あんな所に派手なコンビニがある。京都の笑い話で、京都の風景では国際会議場からの眺めが一番だというのがある。国際会議場が見えないからだそうだ。風景を壊しているものがある。

 私な風景にいらないものがあれば、無いことにして絵を描く。ないと思っているといつの間にか自分の目に映らなくなる。これは訓練した結果の妄想なのだろう。見ないことにすれば消えるものも在る。絵を描く目で凝視しなければ見えないものも在る。こちらの方は少し難しいが、見えないものも見えてくる。

 では肉眼では見なければならないものが、どうすれば見えるようになるか。虫になれば、見えるものも在る。鳥になれば見えるものも在る。人間の視覚は見れるものの幅が狭い。絵描きの眼を育てて、絵を描く自分なら見えるという所まで行く必要がある。

 植物は様々な信号を発している。昆虫はその信号を捕らえて行動している。例えば、葉っぱを食べる虫がいると、植物はここに虫がいるぞという信号を葉から出す。それを鳥が関知して、集まってきて、その虫を駆除するというのだ。

 人間が見えてないから無いと考えるのは、人間の過信である。人間には見えないものが地上には様々溢れている。ナマズが暴れると地震がある。などというのも、魚には感じられる、まだ分からない信号のようなものがあるに違いない。

 宇宙から来ている信号なども、人間には普通見えない。しかし、縄文人には見えたかも知れない世界である。現代人はそうした自然に対する感覚を失ってしまった。江戸時代の農業者に見えていた世界の姿が、現代の農業者の大半が失ってしまった領域があるはずだ。

 絵を描くと言うことはそうした、現代人が失ってしまった感性を磨き蘇らせなければならない。天才というような人には、きっと見えているものがある。絵画は感覚で描くようにとか言うが、現代人の感性は衰えきってしまった。その感性で感じるものなど知れている。これは驚くほどの人間の感性の衰退だと思う。

 見えないものを見えるようになるには仙人の修行がいる。何千日も凝視続ける。中国の絵画修行はそういう物であった。石を凝視して、そこに仙境が見えるようになり、それを写生する。中国では自然そのもの直接見て描くと言うことは無かった。

 石を見て描く。この繰返しを通して、世界が見えるように訓練をした。絵が写すものではなく、制作するものであると言うことを中国人は気付いていた。日本では装飾画が発展したが、中国では見えないものを見えるように描く絵画が探求された。

 明日の天気が読めなければ、生きていけない世界で何千年も暮らしていれば、天候の変化は読めるようになる。そろそろトナカイが来るだろう。そろそろ鳥の渡りがある。自然の中に生きていた人間には、現代人の失ってしまったものが見えていたはずだ。

 絵を描くと言うことにはそういう感性を取り戻すと言うことである。感じるままに描くと言う前に、感じる力を育てなければならない。そうでなければ風景など見えていないと同じことになる。見ていて見えない。現代人の感性はそうなってしまったという所から始めなければ、少しも自然など見えない。

 自然と人間の関わりが弱まった結果だ。自分自身の実感では20年前よりも自然が見えるようになったと思える。だから絵から曖昧さが少なくなった。昔見ていたものよりも、もう少し踏み込んだ自然が見える。それは肉眼で見ているわけではない。眼前に在るものが発しているすべてを感じるようにして、徐々に見えてきたものだ。

 20年前より見えると言うことは、あと20年すればもっと見えるのかも知れないと思って絵を描いている。見えないものが見えるようになるためには、本気で自然と向かい合うほかない。向かい合う方法の一つが、のぼたん農園をやることだ。

 

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