絵画の線











どの絵も素晴らしい絵だ。絵画には線が現われる。西洋画では線のことをトウシュウとかタッチという。先日の水彩人の総会の後の飲み会で、中川一政の線の話になった。私は「あの汚い線が魅力的だ」ということを口にした。所が、回りにいた人が、一斉に「汚いとはどういうことだ、あの美しい線がわからないのか。」というのだ。
まさか中川一政の線が美しい線だとは思わなかった。素晴らしい線だとは思うが、美しい線ではないだろう。あの汚さにすごみがあるのだと思っている。書の素晴らしさと通ずる線なのだろう。素直にあの線を美しいと感じる人もいるようだ。マチスの何でもない線の素晴らしさと対極のものだ。
マチスの絵が好きだと言われたときと同じおかしさを感じた。マチスの絵を好きだとか、簡単に好ききらいで見るのか言うのか、という驚きだ。そうしたらなんと井上有一の線まで話が広がった。一体美しい線とはどんな線のことだろうか。こんな話をしながら飲むのが楽しいのだけど。
絵の線で特に注目すべき線は、マチスの線。ボナールの線。モネの線。中川一政の線。梅原龍三郎の線。鈴木信太郎の線。小糸源太郎の線。児島善三郎の線。須田克太の線。松田正平の線。野見山暁治の線。どの人もその人の線があり素晴らしい。マチスの線は全く何でもない線でそれがいいと思う。
当然のことだがそれぞれに違うのだ。その違いに着目して、その違いの意味を考えてみる必要がある。というように面倒くさいのが、私の絵の考え方だ。わあーきれい!とかで済ますことができない性格である。絵の線に感動したならばその理由を考えたくなる。線の意味を分析的に考えたいということではない。線の味わいの奥深さの違いを確認して味わいたい。
ここにあげた絵は私の好きな絵の一覧のようなものだ。小さな写真では何もわからないが、それぞれに違う。そしてどの絵も私だと語っている。絵はそれだけでいい。絵がマチスですというのであれば、それが最高のことだ。絵が笹村ですという線を描きたいだけだ。
線に浪花節が入ってはならない。といった人がいる。線が見栄を切ったらみっともない。ヘタウマの線はまだいいが、上手い線はどうにもならない。線はありきたりに引け。線は当たり前なのに、宇宙を感じさせる。線は決定的なのだが、何も感じさせないように引け。線に意図が入り込んだらだめだ。
などなど様々考えている。そして何も考えないで線を引く。誰が引いたのかと思えれば幸いである。自分から一番遠いものであり、自分であるもの。そんなことを考えながら線を重ねてゆく。私の線はまだまだ線とか言えるものではないかもしれない。自分の中のよく見られたいとか、立派でありたいとかが災いしている。
