生を明らめ、死を明らめ

   

道元禅師「正法眼蔵」は極めて難解な書物である。曹洞宗の僧侶でありながら、挑戦しても読解できないできた。今は取り掛かる気力がない。正法眼蔵は読み解けないが、せめてそのダイジェスト版が修証義は、お経として唱える。その冒頭に「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり。生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし。この時はじめて生死を離るる分あり。ただ一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。」と書かれている。生まれてきたという事の意味を知り、死んでゆくという事の意味を知る。それが仏道だと私なりに理解してきた。私の理解が違っていたという事に最近気づいた。生まれてきたことを理解するという事ではなく、生きている今を知ることの重要性が書かれている。生きるという事を十分生き切れば、死も受け入れることができると書かれているような。

当たり前と言えば当たり前だが、生まれてきたときは無意識である。1歳以前の記憶というものを持つ人は少ない。中には胎児のときの記憶があるという人も居るそうだが。生まれる以前のことは誰も知らない。つまり何もない世界である。自分という人間存在としての、無。空白。そこから徐々に意識されるものが現れ、自我というものが形成される。そして、死を迎える。死は誰にも来る。そして、死後は生まれる前と同じで、無であり、空白。様々な想像はあるが、根拠のない想像に過ぎない。全ては生から死までの間の時間を生きることが自己存在である。当たり前すぎることだ。人間は生まれる前のことは過去のことなので、どのような世界だったかを考えることは少ない。これから来るであろう死と死後のことを想像するのが常である。しかし、いくら想像しても死後のことは空想世界である。無であり、空白。つまり、死ですべてが終わるという事を認めることからが、私の生き方である。

死を認め、その先何もないという事を、確認、覚悟できれば、いま生きるという意味が変わってくる。生きるという事を十分にできれば、ああこれだけ生きたという実感があれば、已む得ず来る死という理不尽なものも、何とか受け入れられるという事ではないだろうか。やり切るという事ができる。これ以上はやれないというところまで十分に生きることを味わえれば、どうにもならない理不尽な死も受容できるかもしれない、という希望。死は悲しい、辛い、諦めもつかないことではある。しかし、誰にでも来る以上避けがたい。避けがたいのであるから、いま生きるという事をひたすらに充実させることが貴重になる。生きるという時間を無駄には出来ない。充分に生きるをやり尽くす。と書きながらも、到底その域には自分はない。ないからこそ繰り返しそう書いているのだろう。

66歳になり、三線を始めた。新しいことに挑戦してみたいと考えた。自分の範囲を広げてみる。やったこともないことを始めてみるという体験をしてみている。自分というものの今の状態が分かる。記憶力が衰えている。子供の頃いつの間にか歌を覚えていたことから思うと、雲泥の違いがある。呼吸が浅くなっているので、唄が続かない。音階出せる範囲が狭くなっている。高音は苦しげになり、低音はよく聞き取れない。それが今の自分である。その今の自分を表現してみることで、自分というものを確認してみたくなった。見苦しいことかもしれない。然しそれが今の自分である。絵を描くことも同じだと思う。子供の頃から続けてきたことだから、絵に引き出されるようなことがある。描いている絵が自分に問いかけてくれる。歌も、歌う事で自分が引き出されてくれるところまで行きたい。死を明らかにすることは出来ないとしても、生を明らかにすることは出来るかもしれない。

 

 

 

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