石垣島で描く
石垣島で絵を描いている。日産のルークス6824という軽自動車の中で描いている。ありがたいことに、後ろの座席がフラットになるスライドドアの車が借りられた。スカイレンタカーの車だ。5日間借りて、15000円である。高いようで安い。ここで寝ながら描いていても別段同じなのだが、一応寝る場所はウイクリーマンションだ。描く場所はいつもの2か所である。山の上と川添いの場所を描いている。やはり面白い。この場所を描いて3回目である。最初から面白いところが変わらない。自然と人間の暮らしの調和したような場所だ。石垣にはそうした古い時代の土地に密着した耕作の様子がある。自然とのせめぎあいであり、折り合いのつけ方がいい。マングローブの群生地から続いて田んぼがある。自然そのままの川が残されている。川と道と畑の関係が面白い。そしてなんといっても土の感触。田んぼも地形に沿って作られている。当たり前のことだが、こういう様子を描くのが、うれしい限りである。
気温はまだ30度まで上がる。1度は熱帯夜があった。田んぼに水が張られている。どの時期でも田植えが出来るといわれていた。石垣は農業の情熱がある。それは耕作の様子を見ればわかる。田んぼが残っているところが何よりその証拠である。収益だけを考えれば、止めてしまうだろう。古い時代から稲作が始まったのだろう。日本に最初に稲作が伝わった地域かもしれない。その後大和との関係で、日本式の稲作法が行われるようになったのではなかろうか。描いている場所はそういうマングローブの林を切り開いて田んぼにしたような場所だ。あるいは、小さな川の淀みを広げて田んぼにしたような場所だ。今は、牧草地になっている場所もあれば、サトウキビ畑になった場所もある。田んぼが続いているところもある。やはり、田んぼは減少しているのだろう。田んぼにできるのにとつい考えてしまう場所が牧草地になっている。沖縄本島では、まず田んぼを目にすることはない。田んぼのない景色では日本の農のかかわりを描いている気にはなれない。
マングローブの林と山との間の平地を田んぼにする。石垣より急峻な西表では、田んぼは少ない。田んぼがすくなければ人口も少ない。その少しの田んぼも減少が進んでいる。仲良川添いにあった、田んぼも集落もなくなり、仲良田節が残っている。あの仲良田節のような絵が描きたい。年貢を納めてなんと満足なことかという歌詞がある。そこには悲惨な薩摩藩、その手先としての首里王朝の二重の搾取があるのだが、同時に暮らしに対する愛着のようなものが深い。それは唄になった時に強く感じられる。歌詞だけではわからないものが唄にはある。石垣に来て描きたいのは農の暮らし。日本人が作られた暮らし。そのほんとうの空気。明るく、澄み切っている安定した暮らし。どの農地でも2人で働いている。これはもう小田原では少ない。日本人が作られたもの。日本人が求めていたもの。絵なら描けるのではないかと思う世界観。
石垣に来るとただ絵を描くだけである。ご飯を食べる。寝る。それ以外は楽しく絵を描いている。絵を描くということは、創造の苦しみというようなこととは程遠い。私の目が見ているものを、そのまま絵にしようということだ。創造しているというわけではない。ただ写している。問題は私の眼に見えているかどうかである。目に映るということと、見るということでは違う。見るということは行為である。努力や苦しみがあるとすれば、見えない自分を見える自分に成長できるかである。スポーツ選手のようなものだ。日ごろの練習の成果が今問われる。日ごろの練習とは、自給的な暮らしのことだ。自給的な暮らしを身をもって行うことで、自分の眼が鍛えられ、深まると考えている。自給の田んぼは一種の修養である。立派なお米がとれるという明確な結論があるから、その修養の方向ははっきりしている。身体も頭も、感じる感性を磨かなければ、よい田んぼはできない。よいお米はできない。その日ごろの鍛錬の成果が、絵を描くことに表われると考えている。田んぼが見えるようになった分だけ、絵の眼も深まる。