自給生活は何歳まで出来るのか
そろそろ、67歳になる。徐々に体の衰えを感じる。作業が続くと、疲れもたまる。去年出来た草刈りが今年より重荷になっている。去年は草刈り機を使ってもタンク満タンで2回は何とかなった。今年はタンク満タン1回にしている。時間にして2時間ぐらいである。草刈りが出来なくなれば自給生活は、終わりとなる。何歳まで自給生活ができるのかには興味がある。身体は丈夫な方ではなかった。子供の頃から虚弱体質だと言われて育った。大きな病気はしたことがないが、いつも風邪をひき、おなかが痛かった。37歳の時山北に通って開墾を始めた。おかげさまで身体は何とか丈夫になったようだ。後田んぼが4回ということで、70までは自給の田んぼも畑も何とか続けられそうな気がしている。本当だろうかと思いながら、あと4回の田んぼである。大事にやりたいものだ。
普通に80代でも農業を続けている方は沢山おられる。しかし、途中まで絵ばかり描いていたような軟弱なぐうたらに、いつまで自給生活が続けられるかである。65歳で業としての養鶏は辞めるつもりだったし、その通りに終わりにした。責任がどこか持てない気がした。自然養鶏はとことん徹底するものだった。その点では他に類を見ないものだと思う。我ながらよくも65歳までやった。限界だったと思う。何か落ち度が出来てからでは、自分が許せなかった。その後は自給生活をただ普通にしている。これは30年になろうとしている。自給の技術では今でも年々発見がある。発見があるのは、分からない事が広がるからのようだ。手探りである。今月の現代農業は土寄せ特集だった。お、やってみようかという技術があった。今まで土寄せは感心しないと思っていたのだが、作物によっては必要なのかと思った。やってみて答えが出るにはまた何年もかかる。
自給は技術の深さしだいで、結構な歳まで可能なのではないだろうか。老人自給法だってある。そのあとは寝たきり自給法かもしれない。先のことはまだわからないが、2019年の8月までは今の継続でやる予定だ。その年の田んぼの終わりまでやりたい。とすると2019年の秋が自給の一応のめどとなる。それまで元気で続けながら、自給の記録だけは続けたいと思う。大多数の人には無意味な記録なのだが、ごく少数の自給をしてみたいと考える人には、いくらか参考になると思う。参考というのは失敗事例も参考なのだから、様々であることが大切なのだ。私の失敗はあなたの肥やしと自然養鶏の通信に書いてあった事を思い出す。そうして十二分に暮らしたい。自分の生きるという事に直面したい。生きるという事の意味をもっともっと味わいたい。
こうして自給を考えてみると、自分が自分の力で生きるという当たり前の暮らしをやりたいという事で来た。自分で生きるといっても出来るだけの範囲である。その範囲こそ、自分というものの範囲であり、自分のいい加減さも含めた、生きる自分に直面するという事だ。生きるという事にどこまで迫ることができるか。そのことは当たり前の日々なのだが、何か実感が持てないでいる。いい年をしておかしいのだが、いい加減に毎日を暮らしてきたのだろう。確かな感じがない。このままでは終われないという事だ。せっかく生まれた命だからその切実なところにぶち当たりたいという事だ。残された時間がどれだけあるかわからないが、今までいい加減に来てしまったわけで、残された時間もう少し突き詰めたい。などと思うから絵を描いて居る。絵を描くという事こそ、本音では自給だと考えている。自給というのは自分というものにぶち当たるためのものなのだ。自分が食べて生きるものを作るという事が、その道なのだ。絵は食べ物ではないが、・・・。