若冲のこと
先日、都美術館の事務所に確認事項があって出かけた。若冲展も見れればと、思っていたのだが、到底入れないほどの人が上野公園の方まで並んでいた。最近あまり見ない美術展の行列である。日本人画家がこれほど話題になるのは珍しいことではないだろうか。若冲の絵画は私の考える絵画とは違うものだ。芸術として評価したことはない。ただ、若冲は鶏を良く描くので江戸時代の鶏の参考にするために、見たことは多いい方かと思う。良く見た40年前くらいは、異端画家という評価だった。浮世絵の評価がヨーロッパから日本に逆評価になったように、若冲も日本でというより海外の評価が先だったような気がする。明治期の江戸文化否定の流れの中にある。江戸時代浮世絵が芸術ではなく、庶民の娯楽、イラストという意識で明治期の日本では見られていた。文明開化で日本人が無理をしていた時代なのだろう。多分、若冲の評価が江戸時代今ほどではなく、面白いけれど正統派ではないとみなされた原因は考えるに値する。蕭白などと同様の、主流の品のいい美術品ではなく、ゲテモノ趣味的な扱いである。
若冲は1000年後に自分の絵画は評価されるだろうと考えていたとされるが、それは間違っていなかった。若冲の考えたような絵画の世界より、世間一般が変わった。絵画の芸術性というものが、失われた時代になり、若冲のような描写の鬼才に目が向くようになったと思われる。それまでの日本の絵画観は、精神世界を表現するもと考えられていた。侘びとか寂とか、精神の深さに触れるものを尊いとした。即物的に物を写しとる写真のような表現は、絵画とは見られなかったのだ。絵は見えている世界を超えた、心の感じる世界を表すものと考えれていた。ところが時代の方が精神性の深さというようなものを信じなくなった。訳の分からないものは、ないことにしておこうという事だろう。確かに、世界は広がり、即物的な要素が強まった。瓜二つというような、レベルでの描写の流行は文化衰退期に起ることである。芸術への不信が根底にある。
それは、アメリカのハイパーリアリズムとか言われる描写だけに興味を持つような絵画から始まる。製作者の感性とか、個別性とかいうものはない世界である。写し取る技のようなものだけが前面に出てくる。ややこしい芸術性などというものがないだけに、アメリカ人向きだったのだろう。それは、日本人のアメリカナイズによって、日本国内でもちらほら見かけるようになった。ただリアルであるだけのものがコンクールなどでも評価をされた。精神世界のような評価の分かれる絵画より、誰もがそっくりであるという価値だけは認めるからである。芸術評価基準を選ぶ方が失ったのである。何を良しとするかの判断基準のない時代に入った。夏目漱石が梅原の絵を評価した。というような、文化的審美眼が失われた時代に入った。漱石ならなるほどというほどの目利きが居ない。目が利かないとなると、人並み外れた描写に評価が流れる。
その流れが、若冲に向った。江戸時代ならそのひつこい描写が卑しいものだとみられただろうが、この時代では、素晴らしい絵画表現であるといったところで、誰も不思議に思わない。突然若冲研究家が勢いを増した。若冲の絵は精神性が浅い。それは目に見える世界しかないと考えているからである。見えているということを肉眼に限定している不思議さがある。見えるという事は、宇宙も見えるし、ミクロの世界も見える。そして、見えない世界も見える。そうした肉眼を超えた、得も言われぬものを描き止めるのが、絵画だ。雪舟の見た世界観、宗達の世界。我々をはるかに超えた、信じ難いような絵画世界というものはある。若冲は異端であるからこそ、若冲なのだ。