子供の声の苦情で保育園断念
子供の遊ぶ声がうるさいというので、保育園開園断念するところが、各地にあるらしい。日本人はいよいよ、劣化が進んでいる。保育園開園反対の御仁が、テレビで堂々と顔を出して、反対理由を述べている。「静かに暮らしたと思いこの地に越してきた。子供の声が響き渡るようでは平穏に暮らせない。」当然の権利とばかりに述べていた。何という生命としての弱まりであるか。子供の泣き声が夜中に響き渡るというのならともかく、保育園が開かれている昼間のことだ。子供が少々騒いだところで、平穏に暮らせないほどではないのは当たり前のことではないか。子供なぞ居ない方が良いと考えてでもいるのではないか。人類は終わればいいという事になる。都市での人間の暮らしというものは、そう平穏なものではない。騒音に満ちていると言ってもいい。それに耐えられないような人間が増えているという事に間違いない。3%ぐらいそういう人がいても普通だろうが、そういう人が半数を超えるようになれば、その国は終わるのだろう。
保育園を増やすことは、緊急の課題だ。待機児童で本当に困っている人が、6万人もいるとみられている。政治が取り組まなければならない、第一の課題であろう。子供が預けられないがために、働きに出ることを諦めなければならないという事は、社会存立の危機である。昔は大家族だった。おばあさんやおじいさん、又その上の世代のひいばあさんが孫や玄孫の面倒を見ていた。私はおじいさんとおばあさんにずいぶん見てもらった。それも出来なければ隣のおばあさんが面倒を見たりしていた。現代社会はそうした家族や地域のゆとりが失われてしまった。孤立した若い夫婦が、子供のことで行き詰まるのは現実何処にでもあることだ。自分の子供を重荷としてしまう可能性も高まっている。この暮らしの困難な部分を緊急に解決する為には、それぞれがそれぞれの立場で協力してゆく必要がある。このことを考えれば、個人の権利も一定の範囲で制限されても仕方がないことである。それが社会の中で生きてゆく最小限の制限である。
鶏の声が騒音になり、鶏を飼う事が出来なくなった。私が養鶏を止める決意もそこにもある。自治会から、二度養鶏が困るという苦情が来ていると言われた。農業地域で、農業をしている以上、一定の騒音は我慢してもらう必要がある。騒音が法に触れるほど大きいならともかく、人家から距離もあって、飼っていることすら知らない人がほとんどである。それでも誰かが自治会に苦情を申し立てるらしい。さすがに私が自治会長の間は言ってこなかった。隠れて言いたいのだろう。これで嫌になって止める気になったこともある。子供の声がうるさいという事は、子供の存在に耐えられない人間が増えてきたという事だ。子供のいない家庭に違いない。鶏が好きなら鳴き声は悪くない。子供が好きなら、子供の声は賑わいである。忘れてはならない。誰しも子供の頃泣き叫んで、誰かに迷惑をかけたのだ。それを迷惑と考えない親がいてくれたので、大人になれたのだ。それが人間というものの当たり前の姿だ。
待機児童の親御さんが日本死ねと悲鳴を上げた。当然の声である。それを、昼寝の邪魔になる程度のことで、権利を主張するなど許されるのだろうか。こういうエゴの権利主張に対して、今の行政は弱い。すぐに引っ込んでしまう。ごみ屋敷が片付けられないのと同じだ。きちっと説明をして、法律の範囲で、すぐにも結論を出すべきだ。もし、当該地区の自治会が反対という結論であるなら、その地区の子供達は他の地区の学校に入れなければいい。その地区内に自分たちの、保育園から、小学校や中学校と作ったらどうだ。権利だけしか見えない人たちには、勝手にやってもらえばいい。お互い、助け合わなければ社会は成立しないのだ。静かな住宅地に立派な家があることは、誰のお陰なのか、自分一人で生きていると思ったら大間違いだ。我慢し、譲り合う心に、助けられたのではないのか。それに気づかないようでは失格である。