稲作とトンボとホタル
渡部さんから頂いた写真
カエルとほたると赤とんぼは田んぼと懐かしさで繋がっている生き物だ。昭和20年代までの子供は夕焼け小焼けの赤とんぼである。世代共通の思い出が、なんとなくホタルを見にいった田んぼとか、赤とんぼが群れ飛ぶ田んぼ道にある。故郷とホタルや赤とんぼの記憶が繋がる最後の世代なのだろう。田んぼにはホタルやトンボを増やす機能がある。などと言ってみたところで、ゴキブリとカブトムシが同じという、世界中の普通の人に近づいているのが現生日本人と考えた方が良い。昆虫というものの意味付けは郷愁ではくくれない、別の世界になってきているのではなかろうか。汚いから虫に触ってはダメという親も多いいのが現実。田んぼの畔の草刈りをしない方が、ホタルには良い。田んぼの水路の土上げはほどほどにしないとホタルが居なくなる。果たして、そいう事を大切にする労働力はどこに存在するかである。もう田舎のおじいさんもおばあさんも、限界が近づいている。
懐かしいふるさとなど知らない世代に、どのようにホタルや赤とんぼの魅力を伝えられるかである。そいう事は無理にやったところで、何の効果もない。もう少し違うところで、自然というものの魅力が培われなければならない。テレビでは当たり前の故郷の風景が消えて、絶景というものがもてはやされる。これは絵で言えばリアル絵画と同じで、わかりやすい世界しか通用しないのだ。どんな育ちをした人にしても、絶景のよう景色なら惹きつけられる。しかし、絶景の魅力と里地里山の暮らしの環境の魅力とは違う。暮らしの環境は当たり前であり、何でもない魅力である。普通であるからこそ永遠があり、命の循環がある。それが里地里山のかつての姿だ。我々はホタル舞う田んぼを知ることができた、最後の幸せな世代なのだろう。確かに、今でもホタルの里は全国各地にある。観光客を呼んでもいる。しかし、それを見に行く人たちは生まれて初めてホタルの舞う絶景を見るのではなかろうか。
生きもの豊かな田んぼを維持するためには、農業とは別の努力を必要とする時代なのだ。その努力は誰が担うのかである。観光と結びつけるとするなら、観光資源としての出費は必要だろう。子供の情操教育というのであれば、そういう予算も必要である。ボランティアで生き物がはぐくまれる田んぼを保全するという事は不可能である。日本の自然環境はすでに相当にゆがんでいる。セアカコケグモやヒアリの登場である。生きものの世界もグローバル化である。田んぼにも、外来生物が多様に存在する。アメリカザリガニ、ジャンボタニシ、朝鮮シジミ。日本古来の生きものが肩身の狭い思いをしている。意図をもって努力したとしても、かつての日本の自然を取り戻すことなど、出来ないのだ。生き残る老農の努力に期待しても到底無理なのだ。善意のそのような期待が、無理な行き詰まりに追い込む可能性も高い。ひたすら努力した保全活動の結果が、外来生物の宝庫となり、未来が見えなくなる状況がある。
里地里山は新しい環境保全の枠組みを必要としている。農家抜きに考えなければならないほど里地里山は風前の灯火である。大型農家、国際競争力農家は自然環境破壊型農業を推進するのは当然の道だ。これでは、美しい農村や農業に対する国民全体の共感はますます失われる。もし瑞穂の国を守るべきだとする、安倍晋三氏の主張が本音であるなら、政府は日本を、瑞穂の国を共存調和の農本国家ととらえなくてはならない。そしてどのような枠組みを作れば、里地里山が維持できるかの議論を始めなくてはならない。私は自給型農業の広がり以外道はないと考えている。自給農業は競争のない農業である。自分の生き方としての農業である。自分の生き方であれば、ホタルを守り、トンボを育むこともできる可能性がある。国際競争力を求めるのも悪くはない。しかし、条件不利地域では国際競争に必ず負ける地域だ。そうした、都市近郊の分割された農地や中山間地農業では、自給農業を認めなければならない。法律の改正が緊急に必要になっている。