石垣島の田んぼ

      2016/08/06

田植えの終わった、石垣島の新川の仲新城さんの田んぼ。一本植か、二本植である。

石垣島で田んぼの絵を描いた。石垣の田んぼは、空があり、海があり、サンゴ礁があり、マングローブがあり、湿地があり、そして田んぼに続く。その変化している層が自然の連なりのようである。そして自然と人間のかかわり型の、原形のようなものを表している。自然の中に溶け込んでいる田んぼ。空が田んぼであるとしてもいいし、海が田んぼであるとしても、絵ではいい。それくらい自然と田んぼが宇宙として一体をなしている。その全体性を見ることができるのが石垣島である。その田んぼの宇宙を描きたい思いまた同じ場所に行った。この宇宙的空間を描くことができるという事自体が幸せである。今回はそれなりに写すことができたような気がしている。描けたという感触はめったにないことなので、嬉しい。

小浜島の田んぼ

今回、小浜島と石垣島で田んぼの絵を描いた。絵を描くという事は実はその水土を感じるという事だと考えている。水土を感じなければ私には絵を描く材料がない。他の人の絵はたぶん違うのだろう。これはあくまで私の描く「私絵画」の場合である。絵ではないのかもしれない。あるいはこれこそ絵なのかもしれない。どちらにしろそれ以外のことは興味がない。田んぼをやる人だけにわかる田んぼのことがある。例えば田んぼの泥の中に入った時の感触。足を入れなければわかるはずもない。無数に湧き出てくるミジンコのこと。イトミミズのこと、赤虫のこと。赤とんぼのヤゴ。オタマジャクシ。蛍。そうした生き物の宝庫である田んぼ。そして稲が十分に育つ環境。良い水がどんな水であり、良い土がどんな土であるか。そいういう事を含めて田んぼの絵を描きたいと考えている。そういう豊かな自然環境を描きたいと思っている。いわばそういうイラスト画なのだが、絵でしか表現できない世界だ考える。

今回石垣から船で小浜島に行った。船から見た石垣島はまた別なものであった。ずいぶん高い山がそびえているし、大きな島である。一方小浜島は心細くなるような小さな島である。石垣島がこの海原に存在するという事も絵に影響した。私絵画では、そういうその時の心境のようなものが絵に表れる。それを心象絵画と呼ぶ人も居るが、そのくくり方は、何か違和感がある。心象をを表すという事は、心の中に浮かぶ像を描くという事なのだろうが、目に映るものをそのまま写すだけである。ただ目に映るという事は一様ではないという事になる。田んぼを長年やっている者の目に映るものと。田んぼをやったことのない人では、見えるものが違う。ところが、私が写真機で取る田んぼも。田んぼを始めてみる外国人が写真機で写す田んぼも同じである。この写真器で写すような範囲では、田んぼの本当の姿が映っているとは到底私には感じられないのだ。

ここに絵でしか描けないものがある。私だけに見えているものを何とか絵にしたいという事である。それが里地里山の実像だと考えるからだ。写真や映画で残されたものが、本当のものではないという事を、記録しておく責任のようなものを勝手に感じている。昔の白黒写真の世界が、昔はこうだったかという誤解を与えていると思う。昔はアナン物ではなかったと知っている人が居なくなった時に、相当の誤解が広がると思う。写真や映画があるがために、却っておかしな想像をさせることになるのだろう。絵はその点が違う。むしろ本当にそこに生きた人間の感覚が息づいている。今のところそのことをやるのが自分の絵を描くという事だと考えている。そう公開でブログを書いているという事は、こういう考えを公開していながら確認することで、自分を明確にしているという事なのだ。

 - 4月, 水彩画, 稲作