グーグル囲碁が人間を超えた
世界最強と言ってもいい、イセドルさんという韓国の囲碁棋士にグーグルの開発したコンピューターが4勝1敗と勝利した。チェス、将棋、人間を超えてきたコンピューターがついに最難関と言われたゲームの囲碁でも人間を超えた。このグーグル囲碁ソフトが最強になった理由は、どうも二つあるようだ。自ら学習する能力と、直感的な読みを取り入れたという事とある。学習能力は過去の棋譜を膨大に記憶し、検討し、その間違いを読み解き、最善手を発見して能力を高めてゆくことができる仕組みらしい。つまり問題意識をもって過去の事例を調べられるという能力。この点人間が学ぶ速度とは比べられないほど、広く深く、徹底しているという事のようだ。だからソフトそのものが、自ら強くなってゆく仕組みを得たという事になる。新たな手の発見が出来るという事である。そして、もう一つが人間固有の直感的と言われた状況判断が、ソフトにも可能になったという事のようだ。どうも掘り下げて読むのはこの手の先のようだという判断が、直感的にできるというのだ。
人間にしかできないと思われていた直感と呼ばれるような世界が、実はコンピューターの世界でも似たようなものが開発された。ディープランニングというらしい。深層学習。人間的であるとい考えられていた直感的な読み解く能力が、コンピューターでも取り入れられたという事である。コンピューターの開発速度は驚くべき速さだから、いろいろの分野でコンピューターが登場する前兆である。車の自動運転はグーグルが取り組んでいたから、囲碁ソフトと関連があるのだろう。運転補助の車が10年ぐらいの間に登場すれば、私の自動車運転期間も伸びるかもしれない。そうすれば不便なところにまだ暮らせるかもしれない。コンピューターで猫というものを判断できるようになったという事が出ていた。人間が簡単にできることでも、機械では案外に難しいこともある。しかし、いったん乗り越えてしまうと人間の能力では及ばない領域のものになる。猫の雄雌や、親子の判断までできるようになるだろう。人間識別。顔認証などの技術も相当に進んでいる。何がその人を特定できる顔なのかなど、たぶんすでに人間を超えて、双子の人の判別など、人間を超えているという事ではないか。
絵画の複製技術が進めば、モナリザと同等のものが、誰にも判別が出来ないような精巧な模造作品が世に氾濫する時代が、必要とされるなら来る。これは、高校生の時に考えていたことだ。50年経過してまだそこまでは来ないが、必ずそういう精巧な技術は誕生するはずだ。必要とされるかどうかは問題だが。そ牛た技術の時代に成れば、絵画というものの質と意味が変わる。モナリザがいくらでもある状況になれば、鑑賞する絵画の意味は完全に変わる。投資対象としても、美術館の意味も変わる。ロダンの考える人の彫刻は世界にいくつもある。ブロンズ像は本物が複数作れるのだ。人間は機械にできないような人間らしいことをする必要があると言われる。これからは機械のようにやらなければ人間じゃないなどと言われるのだろうか。絵によってはコンピューターの方がマシだろうというものも多いい。過去の自分の作品をなぞるようなものがよくある。システム化されたような手順で描く作品は、やろうと思えばすぐにでも可能なことだろう。
囲碁や将棋は徐々に廃れてゆくことだろう。しかし、コンピューターゲームの1億円プレーヤーがいる。ゲームの世界も興味が変わるという事になる。そして、絵画も廃れるのかと言えば、絵画の場合も、意味が変わるのだと思う。絵画は自分のために描くものになるという事である。私絵画である。自分というものに直面し、自分の人間を掘り下げる思考の一つとして絵を描く。実は人間が行う大半のものが、自分自身のためのものだ。ところが商品経済が席巻して、商品価値のないものを無意味なものとした。その為に、現在の社会の価値観がおかしいに過ぎない。絵画も商品化の時代である。装飾としての価値と、投機的な価値とで絵画は社会に存在している。それが、技術の進歩に伴い無意味化する。そして本来のものの価値に戻る。自らの生きるという事にどれだけ意味のある描き方ができるかである。