小沢裁判高裁無罪
この事件はある種の冤罪事件のようなものだと思う。政治家として、小沢氏はすでに失脚させられたといえる。裁判の判決というものが、制裁という側面ではすでに終わっている。この事件について、公明党の山口代表は「裁判所の判断は尊重する。しかし、この問題でのもろもろの課題について、小沢氏の説明責任は残っている」と語った。自民党幹部は「法的には無罪でも、政治的には有罪だ。政治資金の使い道として、国民の多くはおかしいと思っている」と指摘したそうだ。自民党の人間が、小沢氏を批判し政治的に有罪という発言をしているとしたら、自民党自らには、政治的有罪が無いという事であろうか。政治的有罪の手法を、良しとすることは民主主義の成長を著しく阻害する。この事件が起きた時にも書いたが、政治資金で土地を購入することは問題である。そのお金の出所を賄賂と証拠も無いのに決めつける事とは別の問題だ。
自民党の竹本 直一氏は予算員会で、週刊誌のネタを元に延々と厭らしい質問をしていた。自分が調査をしていくらかでも、事実をつかんでいるのなら別である。週刊誌の情報だけで、予算委員会で追及することは議員の恥である。国会で議論しなければならない、原子力規制委員会のこと、TPPのこと、尖閣のこと、竹島のこと、それをさておいて週刊誌ネタで暴力団問題に終始するのは、議員として失格である。スキャンダルで、足をすくおうと言う、自民党の衆議院議員のレベルの低さが目に余る。震災復興予算の不正流用問題はどうなったのか。もう一度予算委員会で問いただすべきではないか。2日間の短い審議の中で、週刊誌ネタにかかわっている時間は無い。このやり方が、小沢冤罪事件と同じことになる。怪しいという事だけで、政敵を失脚させる手法。橋下氏を攻撃した、週刊朝日のやり方と、自民党は同レベルに成ってしまう。
小沢裁判は検察審査会の議決による強制起訴制度の悪例と言える。指定弁護士側に勝訴の可能性も無いのに、裁判を長引かせる対応も法の正義に反する。政治家にとって、裁判が続いているという事が制裁に成っている。今回の事件の怪しさと、法的な判断は別なのである。司法制度の政治利用のようなものだ。どうどうと政治の中で議論すればいいことだ。法律の判断を尊重することが法治国家のやり方である。裁判の政治利用はあってはならない。検察審査会の構成員は11名のくじ引きで選ばれた普通の人である。検察審査会は検察が起訴できないとした事件の中で、起訴の必要があるとする申し出に対して、判断する審査会である。もし無罪が確定したとしたら、無罪の政治家の政治生命を11人の民間の人間が間違った判断で終焉させたという事に成る。小沢氏の好嫌いは別にして、政治的立場は回復されなければならない。
本来検察審査会の目的は、例えば警察の落ち度など、検察の関係者が身内に甘い判断をしていないかの、チェックが目的である。検察自身は虚偽報告書を作成した当時の検察官らを不起訴とした。この処分への不服申し立てが市民団体から検察審に出されている。こうした事件の審査が本来の目的である。小沢事件に対する報道のゆがみもひどいものであった。検察の審査会での起訴への誘導があったと疑われる。この事の検証もされなければならない。検察審査制度は必要なのだが、大きな欠陥がある。審査対象から政治家をはずすことはできないものだろうか。次の同様の問題が生じる可能性が高い。今回の小沢事件の実態は、検察の小沢氏へ建設会社から賄賂があり、それが土地購入に向けられたという思い込みが始まりである。思い込みから検察の強引な捜査となった。これは検察自身が認めていることだ。今回の対象はあくまで虚偽記載である。
昨日の自給作業:大豆の刈り取り3時間 累計時間:8時間