福島第1原子力発電所
原子力発電所の事故が深刻さを増している。東京電力の発表が深夜にあった。何が起きているのか一向に分からず、いよいよ不安が増す。その後今に至るまで、情報は良く分からないままである。隠しているというより、把握できないという気がする。原子炉についている圧力を逃がす弁が開かないために、炉の中に水が送りこめないという説明だけである。何故弁が開けられないかは、誰にもわからない、あらゆる想像が飛び交うだけである。分かるくらないなら弁はすぐに開いている。この弁は緊急的に炉内の圧力が高くなったときに、自動的に開く緊急解放弁もあれば、機械的に力をかけて開けられる弁もあるらしい。10個ついているとも言っていた。東電の人は11時から閉まったままであるという発表を1時にしていて、2時間空けられないでいるにもかかわらず、空くと考えています、と言っていた。想定外の事態ということだろう。今回の成り行きは、原子力発電所の安全性を根底から覆す事態である。
原子力発電所の安全性は、特に地震に対する備えについて、地域住民による問題点の指摘は、繰り返し裁判となってきた。事故が起こる度に安全性が問われ、再開は簡単に行われた訳ではない。にもかかわらず、想定以上の大地震が起きて、想定以上の巨大津波が来た。その時やはり原子力発電所は耐えられなかった。今紙一重のところでさまよっているが、原子力発電方式は安全なものとは言えない。地震国日本に相応しい発電の方式ではない。それは石油が出ないから、火力が割高になる。というような事と同じで、日本人はそうした条件の日本列島に暮らしている。経済の競争から言えば、不利な条件ではあるが、地震災害が多発するような、条件で原子力発電所を中心に据えた、電力の計画を立てることは危険すぎる。いつか、必ず崩壊に至る道である。不利であれ、日本の条件に適合する発電方式を見つけ出さない限り、日本の成り立ちはない。
日本人は何度も根こそぎとも言いたくなるような自然災害を受けて、鍛えられ、つらい経験を乗り越えて今生きている。今度の想像を絶するような災害も、耐えて、先に進めるはずだ。原子力発電所事故は、今現在深刻な炉心の熱を冷ます事が出来ないで、溶け出している。それは3基にも及んでいる。放射能汚染をどの範囲に抑えることが出来るかが、今の問題だろう。何とか弁は開き圧力が低下したが、中に海水を送り込めないというのが、4時現在の状況のようだ。と言っても確かな情報ではない。綱渡り状態であることだけは確かである。管首相が対策本部長に成って、東電と政府が対応を一つにすると、先ほどなったようだ。後手後手である。今回の原子力事故の対応を見ると、日本の安全技術の頼りなさが浮き彫りに成っている。世界はそのことに着目しているだろう。日本株は買いにくい状況である。
利益優先で、安全がないがしろにされている。国際競争力を高めるためには、安全だの、環境だの、悠長なことに配慮していたら、置いて行かれるばかりだ。こういう思想が産業界にある。大きな公害を繰り返した、経済競争だけを目標にしてきて、今の日本があるという意識である。経済の亡者となり、紙一重の綱渡りをしてきた、日本がいつ目を覚ますかである。歴史を振り返るときには、災害というものは、起こるべき時に起こる必然性を感じるものである。危険な綱渡りは止めよ。という風に、この大地震を考えるべき材料なのではないか。なかなか舵の方角を変更するのは困難である。踏ん切りをつけろという後押しと考えた方がいいのではないか。金権主義を捨てて、日本人が普通に暮らすことには、何の心配でない。それこそ1番でなくても良い。暮らしというものは競争ではない。そこに暮らしの根を張れば、日本ほど恵まれた条件の国はない。