始まった裁判員制度

   

裁判員の加わった裁判が二つ行われた。世間の評判は概ね良好という所のようだ。報道も妥当な、判決というような論調である。私には相変わらず、裁判員制度の必要がわからない。妥当な判決なら、裁判員等いらないと言う事ではないのか。この制度の目的は司法改革、いわば開かれた司法というようなことなのか。確かに、裁判員が加わる事で分かりやすい裁判になったという。評価が見受けられる。普通の市民にわかる裁判になった。裁判員が加わらなくては、分かりやすくできないという、司法関係者の自己改革力の欠如を意味しているのか。被告、原告に今まで分からない、裁判が行われていると言う事が問題ではないのか。それを改善するために、裁判員が必要だったのか。本末転倒であろう。量刑の決定と言う事を知識の無いものに、指導して、判決に誘導する。全く不自然である。2例目において、4年6ヶ月が妥当かどうかなど、専門家の示唆なく判断できるとは到底思えない。

専門家の資料が偏向しているかなど、どこの誰がチェックするのか。資料というのは必ず、偏向しているものだ。弁護士の出した資料がまさに、片手落ちのものだった。さらに判決までの時間が短くなった。最新の事件が3日で裁かれる。裁判員には3日間でも負担は大きいだろうが、被告にとっては、3日での裁判は短い。3日間で死刑判決が出ることもあるのか。1例目は被告が控訴を決めた。2例目においては、被告加害者と被害者本人、以外の証人尋問はないという。被害者の事件前の発言において、過失の有無について、お互いに食い違った証言をした。事件関係者だけでなく、両者の関係を知っている第3者、複数の意見が聞きたい。事件当事者の意見だけでは、判断材料には不足する。正確な情報なく、適当に人を裁くといっても言いすぎでない行為を、一般市民に押し付けていいものか。私が被告なら、抗議をする。弁護士は何故、第3者証人を要求しないのか。行ったが、裁判長の判断なのか。3日で治めるためだとしたら、大間違いだ。

町にちらほら奇妙な看板がある。「裁きの日は近い」「神は心の罪も裁く」妙に怖ろしい文句だ。旅行に行った街でも同じような看板を見たので、どこかの全国組織が行っているらしい。私のように罪深い人間は、ドキッとする。宗教的なものと想像するが、裁判員制度はこの看板と同じ衝撃がある。国民等しく、罪びとを裁けといっている。専門家に任せるべき仕事はある。検視の仕事を、みんなで体験しろといわれても出来ない。人を裁くと言う事は本来神のみが出来る事だ。法律という、基準に従うのは、あくまで一応の処置だ。殺された家族にしてみれば、基準は別にして、犯人が生きていることが許せないだろう。それは、過失致死罪だって変わらない感情がある。社会というものを、形成するために、法律という被害者には理不尽な、一応のルールを作ってあるだけだ。とすれば、裁くのは法律家達に任せておくのも、知恵のような気がするが。

衆議院選挙にあわせて、最高裁裁判官国民審査が行われる。今まで審査で、バツが過半数になった、裁判官は一人もいない。15.17%の否認が最高だそうだ。意味がわからないまま、何もつけないことで、認めたことにしょう、というあきれた制度だ。もし、丸をつけた判定が過半数に達しない時は、否認となったら、誰一人認められないだろう。片手落ちの制度だ。まる印とばつ印と空白を書き入れる、当たり前の制度にすべきだろう。現制度は何か馬鹿にされているような気がする。ここに司法への不信が存在する。最高裁にまともな判決を出させるためには、正しい審査が行われるよう切望する。最高裁には正直不思議な判決がある。イラク派兵には国連の決定がない。アメリカの思い込みが始まりである。その思い込みが間違いであった事は、アメリカ自身が認めている。そんなことに乗せられた派兵を、憲法違反でないとする最高裁の判断は間違っているだろう。裁判員制度をやるくらいなら、まず、国民審査をまともなものにしてからだ。

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