消費者と言うことば
消費者と言う言葉は嫌いだ。何とか使わないで済ましたい。使わないで、利用者、とか活用者とか、言い換えるのもそぐわない。いい言葉が見つからないままきている。この言葉は企業によって作られた言葉だと思う。企業が生産する。その生産物を利用する意味を、企業側から見ると在庫生産物を消費する。と言う感じがよく出ている。流れ出て、捌けて行く感じが表現されている。消費とは「きえるようについやすこと。」洋服に流行というものがなくて、100年でも200年でも使えるなら、消費物でなく資産になる。昔の着物は財産だった。女性から女性に伝わってゆく、重要な資産であった。私たちの世代でも、僅かにその感覚が残っていて、おばあさんが和服を購入する意味を、そういう所においていた。すでに使うと言う事はほとんど無くなっていた和服。現在の貴金属ぐらいの感じだろうか。消費者と言う位置づけは、企業の戦略に乗せられたことである。
福田内閣では消費者庁を作ると言っていたが、麻生内閣ではもうそれどころではない不人気で、不景気で、野田消費者行政担当大臣の存在が、いまや支えている感がある。民主党は「消費者権利院」法案をだして、やっと議論がされる準備になった。しかし、消費者と言う枠に国民をはめ込むのは、間違っている。生産者もないし、消費者もない。ここに、厳然とした垣根を作ることが、間違えの始まり。工業製品ならまだしも、農産物も同じに、この消費者と言う思想に巻き込まれたことが、間違えの始まりだった。だから、過剰生産、生産調整、価格操作、高付加価値農産物。こうしたおかしな世界に農業が巻き込まれている。食べ物は消費するようなものではない。生きてゆく基盤をさせえて行く、なくては成らない必需品の筆頭である。工業製品の輸出で国を支えようと言うあまり、食料もまったく同じように扱う誤りに落ち込んでいる。
減反政策の見直し論議がちらほら見えてきたが、この商品経済の枠組みの中でしか論議が出来ないのだったら、解決の方法はない。お米は消費者が消費するものではない。トイレットペーパーや、蛍光灯とは成り立ちが違う。お米は代替が利かない。貧乏人こそ米を食え、と言う状況。こうした消費と言う観念を変えるには、消費者と言う所に、謂わばお客さんに市民を安住させないことだ。売買品から、はずす。商品で無くす。それくらいの覚悟がいる。買いたけりゃ特別に売ってやるぐらいの、物にしなければ駄目だ。在庫が余っていて、処理に困る。置いておく場所代もかさむ、不良在庫。これでは当然、消費物に成り下がる。安いほどいいの世界に入る。学校給食は当然米飯以外禁止。公務員の給与は全て米。海外支援も全て米。道路を作るとか、港湾を作るとか、一切なし。
めちゃめちゃ書いているわけだが、食べ物の世界で「消費者」はまずい。農の会の生産物を食べている人は消費者ではない。消費者のつもりを変えて行って貰わないとならない。お金を払って買っているのは、それが一応のルールだからと言う範囲であって欲しい。本来なら、全員が生産者であるべきなのだ。ただしそうは言っても、「今のところ」作れない人もいる。一日たった一時間の時間が取れない人もいる。農作業が出来ない人も居る。そこで、分業という訳で、農作業を出来る者が今は代行している。しかし、出来るようになったら、いつでも始める覚悟はある。そうあって欲しい。その手助けはいつでもする。してきたし、してゆく。新規就農支援の意味で宅配事業の協力をしているが、農の会が宅配事業をしている訳ではない。小さな動きでは在るが今農の会の実践している理念は、日本の軟着陸地点である。全ての市民が、食糧生産者になる。