記憶の世界と絵画との関係

   



 絵は記憶に基づいて描いている。確かに目の前に風景は存在している。その存在している風景を、自分の中の蓄積された記憶とない交ぜなものにして、実際の画面は描かれて行く。絵を描く上での「みる」は記憶とすり合せながら、深いところの自分が見ているものである。

 人が絵を見るときは、それぞれの記憶と絵をすり合せてみている。ゴッホの向日葵をみるとすれば、自分の中にある向日葵を思い起こし、自分の中にある、黄色の色を思い起す。そしてあのタッチから激しい強気意志を感じ取る。

 花の色を描くにしても、今現に見ている花の色以上に、記憶の中の花の色が重要になることは当たり前のことだ。画面に現われる一本の線確かに目の前の枝に触発された線であるとしても、その線は自分の中に蓄積されてきた思いを反映した線でもある。

 絵の中に表われた田んぼの四角形は田んぼではあるが、ただの四角の形でもある。山の形は確かに山型なのではあるが、ただの3角形の形でもある。空を飛ぶ雲はただの楕円の形にもなる。それぞれに意味ある形は絵の上では図形としての名のない形にもなる。

 絵における、色、形、線は今見ている現実のものであると同時に、自分という人間が生きてきて蓄積してきた、形象の再現されたものでもある。常に今見ている現実と、自分の内なる記憶の形象が、入り乱れて自分の中の本質とふれあうものを探している。

 画面に現われてきた図は、より深いところでの記憶の現実なのだ。見ている風景はその自分の内的な世界へいざなう、入口と言うことだ。自分のより本質を目覚めさせてくれる、現実の風景を探していると言うことになる。

 石垣島の風景に出会ったと言うことは、私の記憶の蓄積に触れたと言うことである。それは山梨で生まれて、記憶した風景と深く関連したものに違いない。今は生まれた場所に行っても、どこにもない田んぼの姿と村の風景である。

 生まれた境川の風景をよく描きに行く。しかし、そこには昔の景色はない。今もあるものは甲府盆地という大きな器のような空間である。この空間感だけは自分の中と現実とが、行き交うものである。

 記憶の風景の研究がある。例えば、子供の頃にかよった小学校が、今いってみると、何故か小さく見えるのか。その理由の研究である。これを調べて行くと、実は年限が経って自分が大きくなったために起きたことではなかったのだ。その人それぞれに、印象に深いものほど大きくなる。

 美術室で絵を描くのが好きだった子供には、美術室が大きいのだ。体操が好きで校庭を走り回っていた子供には広い運動場になる。記憶の中に蓄積されたものほど、濃密になり、大きさまで大きなものに変わる。この記憶は絵を描く上で重要になる。

 それが色彩であれば、自分の好きな天然色で思い出すことになる。あの夕焼けの赤色が懐かしいと言うときに、記憶の中の夕焼けの色は、すべての人の顔を真っ赤に染めているのかもしれない。

 人が絵を見ると言うときには、人は自分の記憶と照らし合わせながら見ることになる。絵を描くときには、眼前にある風景は記憶の中の風景が凝縮されたものと融合された結果として描いている。

 その人の最初の記憶はどういうもので、その理由を探る研究がある。普通は4歳か、5歳の頃の風景を覚えているそうだ。私の場合はまだ歩けなかった1歳未満の頃、土を食べた記憶とその風景が合わさって記憶されている。

 土を食べなくなったのはその後、潮干刈りにいって海の砂を食べて、あまりの苦さで食べなくなった。その時の写真が残っていて、土を食べていた記憶がそれより前の歩けない頃だと分かった。何故、土を食べていた風景が記憶されたのかは、何か潜在的な理由があるに違いないが分からない。

 フロイトやユングであれば、深層心理の観点から何故記憶に残ったのかを解明できるのかもしれない。ただ私に分かることはそうした様々な記憶の映像は今描いている絵と重なってくると言うことではないだろうか。それが私絵画である。

 今見ている風景に誘発され、描いている絵になる。別段これが正しい絵の描き方というような気持ちはまったくない。自分のやり方はどうもこんなもののようだと言うことである。この今見ている風景に誘発されるもの、これが重要と言うことだ。

 だから、実際牧草地を見ながら山を描いているとしても、その山の絵は自分の中では牧草地をよく見ていないと描くことは出来ないと言うおかしななことになる。牧草地の空間の様子に記憶の山が見えてくると言うことがある。これは意図してそうしていると言うことではない。

 絵を描くときは考えないようにしている。できる限り心を空にして絵に向かっている。最近動禅を続けている内に、動禅の心境とほぼ同じような状態で絵を描いていると気づくことが良くある。こういうやり方になってから、記憶の中の風景が呼び覚まされることが多くなったのかもしれない。

 子供の頃の記憶にの中にある、甲府盆地とその後ろの衝立のような南アルプス。あの空間感がよみがえり画面の上であの空気を探している。まだその意味はよく分からないが、たぶんこの先に収束点があるのかもしれないと予感するようになってきた。

 私の絵は空間感を探しているようだ。自分の中にある空間の様子を、現実の風景で再現しようとしている。実際の所、そのことが出来ないで終わる絵も少なくない。絵として完成しないと言うより、自分の空間にどうしても成らない絵がある。

 良く出来たと思う絵でも、その点でずれが感じられると、終わることにならない。終われないだけでなく、完成できずに止めるものもままある。日曜展示に出しているものは、一応はそこは越えたはずの絵だが、改めてみるとまだまだである。

 どの絵も方向がバラバラである。描いている気持ちは一つのはずだが、実際にやっていることは、様々になっている。何をやっているのかと思うが、今このようにしか、やれないのであれば、それに従おうと思う。無理して方向付けをしなくとも、いつか方向は定まるだろう。

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