掃除という修行について

   



 この床を毎日から拭きをしている。腰が少し痛いが。何も考えずただ磨いている。この床がとても好きだから、拭き掃除をするのは気分の良いことだ。面倒くさいというような気分は少しもない。この場で、太極拳を行っている。こうして一日中絵を眺める場でもある。

 曹洞宗では掃除というものが修行になっている。毎日お寺の中をくまなく掃除するのだ。時間で言えば、掃除の時間が一番長かったかもしれない。この掃除というのは汚れているからするというような掃除ではない。あくまで修行のひとつである。

  アトリエの拭き掃除も毎日掃除するほどのことでもないのだが、毎日した方が気分がいい。修行というのは気分がいい方角と言うことなのかと思う。絵を描くのも絵を描くことが面白くて仕方がないからだ。

 坊主の説教としてはこの掃除につまらない意味づけをしている。心の掃除をするとか、身の回りを整える尊さとか。そういう意味づけをした途端に修行としての意味はなくなってしまう。掃除が楽しくなくなるからだ。座禅が何にもならないからこそ、修行になると言う大事なことが消えて行く。意味づけがないからこそ修行になる。

 まるで、修行をまじめな生活の規範のようにあれこれを意味づければ、禅というものの重要な部分が欠け落ちて行く。日々の生活にどれだけ向かい合って行けるかに意味がある。禅は世の中のまるで役には立たないものなのだ。これが大変難しいがために、禅に私も挫折して、絵を描くようになった。

 曹洞宗は当時の新興勢力であった武士階級に広まったとされている。修行というものが、武士の命がけの生き方に影響したと言われている。どうも百姓好きの私としては今ひとつ納得のいかないところだ。百姓の生き方こそ、禅の生き方だと思っている。むしろ江戸時代の百姓には禅に生きているような人がたくさん居たように思う。

 だから絵を描くことを何にもならないものにまで高めなくてはならないという意識がある。ごまかしのようでいやなことだが。修行というのはオリンピックで金メダルを取るとと言うような練習とはまるで違う。生きていると言うことを知るためには掃除と言う生活に邁進する。意味ある行為を超えなければ出来ないことのようにおもっている。

 江戸時代になって、禅宗の寺も檀家制度に組み込まれて葬式をやるようになった。これで最もらしい意味づけを行うようになった。だから作務をまるで生活規範のように言うようになったのだ。曹洞宗の禅は本来から大きくずれて人生相談をするようなもっともらしいものになる。

   禅寺では掃除・洗濯・食事の準備や後片づけなど、人間が社会生活をする上で最低限必要な行為を「作務」としている。作務は修行の中でもっと上位に位置づけられている。これは生きているそのものこそ修行だと言うことだ。特別な何かではなく、生活して行く今にひたすらに集中して行く。生活すべてをおろそかにしない。

 生活を見つめて行けば、自分というものに至ることが出来る。そう考えて掃除を修行する。掃除はその場を清潔にするという具体的な意味も確かにある。しかしごみひとつないピカピカの所を一心に掃除するという意味はどういうことか。何か田畑をただ耕している百姓の心のような気がする。

 食事を食べると言うことは生きる基本である。その食べるときには食べることになりきる。食事をすることも修行として食べる。その食料を作ると言うことも禅寺の本来の生活である。禅は生活すべての探求でもある。

 祖父である向昌院の住職であった黒川賢宗はそのことだけは繰返し話した。昔のお坊さんは自分が食べるものは自分で作ったと話した。教訓じみたもっともらしいことは話すことはなかった人だが、食べ物を自分で作ることは、お寺の本来であると少し照れたような感じで話してくれた。

 ミツバチやら、山羊まで飼っていた。もちろん味噌醤油はすべてが自給自足で、葡萄酒の密造で始末書を書かされたこともある。何でも自給することを当たり前の生き方として実践していた。祖父の自給自足は何でもない当たり前のこととしてやろうとしていた。それが私にも影響したのだろう。

 次の代の向昌院の住職の叔父の宗友氏は何でも祖父には逆らったところがあったが、この自給精神だけは祖父よりも強かった。何しろ箒やちりとり、背負子や背負いかごまで作っていた。炭も焼いていた。生活のすべてを自給しようとしていた。しかし、そのことを意味あることと話したことは一度もなかった。ただ楽しそうにやっていた。

 二人ともやりたくてやっていたのであって、仕方がなくやっては居なかった。庭の池では鯉を飼っていて、その鯉を裁いて食べた。別段菜食ではなかった。二人で密造の葡萄酒をかなり飲んだ。ヘビやら、かえるなど何でも食べた。何でも面白がってやっているので、私もやりたくなったのだろう。

 修行の意味は語らないものなのだろうと思う。語ってはいけないことなのだろう。叔父も祖父も、かなり長いこと本山で修行をしていた人だが、修行について何か話すことは全くなかった。私のように何でも説明してしまう人間にはなかなか至れない世界なのだろう。

 祖父は幼い頃に父が死んで寺に入った人だ。叔父は特攻隊で生き残り、永平寺に行った人だ。いろいろ語りそうなものだが、そういう自分のことを話すことは全くなかった。自分のことを語ると言うことは良くないとされているのかもしれない。

 二人とも修行のことなど何も語らなかったが、私が絵に行き詰まったときに自給自足からやり直してみようと考えたことには、大きな影響があったのだろう。言葉よりも生き方から何か学んだという気がする。

 祖父は特に掃除には厳しかった。草取りには厳しかった。草を取りきるまで遊ぶことは許されなかった。本堂の拭き掃除は大変な作業だった。立て付けの悪い障子一枚で外なのだ。毎日ほこりで汚れる。これを掃除しておけと行って出かける。今思えば、孫に修行をさせたかったのだろう。私が中学生の時に坊主になると言ったらそれは喜んでくれて、祖父と叔父で、頭を剃髪してくれた。本山の剃髪の儀式と同じだと行っていた。

 掃除である。石垣の家にはアトリエがある。絵は描かないアトリエなのだが、ここで毎朝、太極拳をする。修行の場である。こういうことをすぐ口にするからいけないのだ。俗物覚悟で生きるという意味で絵を描いているのだから仕方がないか。

 床を磨く。アトリエの床はそういう意味で特別なものにしたいのだ。何とかただただ掃除が出来ないかと思っている。当たり前に生活として丁寧に掃除をしたいと思っている。この床が拭いて居る内にもっと好きな床になった。好きな床の向こう側に絵が置かれている。これがいいと思うのだ。

 このアトリエも1年半が経ち、修行道場の空気が少し生まれたかもしれない。時間とともに何かが籠ってくるものだ。掃除修行のおかげで、絵が良くなるかもしれない。と思うところがダメなところだが。

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