自粛要請社会の違和感
日本は自粛要請と言う他国とは少し違う形でコロナウイルスに対処している。これは憲法が示すとおりの、理想主義の戦いである。そのなかで、過去の日本がよみがえるようにコロナ警察の活動を始めた人が居る。こう言う正義が怖い。
パチンコなぞこの非常時に何故やっているんだ。この非国民と叫ぶ声が聞こえる。むら社会の亡霊がよみがえったかのようだ。命の不安に駆られると、人間は先祖返りをする。理想主義が裏返ると似て非なるモノが登場する。
石垣では市の広報カーがコロナウイルス感染者が多数いると思われます。不要不急の外出をしないようにと、必要に回って歩いている。崎枝の絵を描いているところにも必ず来る。絵を描くことが不要不急と言われているようで実に気分が悪い。
何故感染者が多数存在すると考えているのか不思議でならない。そんな根拠はどこにもない。もし根拠があるなら、ホームページにその理由を示すべきだろう。わたしには、4名の感染者が出た状況から想像して、他にはそれほど居るとは思えないのだ。恐怖心が判断を誤らせているのではないか。
監視社会の主役は行政でその先棒を担ぐのは監視する市民だ。正義を振りかざした市民が自分の恐怖心を弱者への攻撃に転嫁する。日本の民主主義が実に弱いモノで有ったのかと思う。民主主義は自らを律することであり、他人を責めることに利用してはならない。
私だってパチンコを含めてギャンブルは大嫌いだから、止めるべきだとは思う。パチンコ屋から感染クラスターが起こることは馬鹿馬鹿しすぎる。しかし、あくまで自粛要請なのだから、法治国家である以上、問題点を指摘してあとは故人の判断である。あの閉店要請という根拠はどこにあるのだろうか。
誰もが自分のやっている仕事が自粛させられたことを考えるべきだろう。みんなのためには絵を描くことを止めなければならないとしたら、止められるだろうか。それでも地球は回っている。それでもパチンコは必要だと言うのかもしれない。
石垣市に真栄里公園という場所がある。遊具などない広場のような場所だ。そこで日曜日の朝、太極拳をやっていた。ところが立ち入り禁止の綱が張られている。一体この広い公園で数人で太極拳をしては行けないという理由は何だろうか。この公園が3密になったことなどない。恐れる余り、行政が科学性を捨ててはならないのではないだろうか。
パチンコ屋よりも、通勤電車の方が3密だと思う。これを解消できない社会がパチンコ屋を特別に取り上げるのはおかしいと思う。テレビ局で通勤電車の3密を批判しているところはない。巣鴨の商店街が混んでいる問題は通勤電車に比べれば、はるかに小さい。一貫した科学的な眼で感染を問題にするのであれば、報道は通勤電車を自粛すべきと政府に主張すべきではないか。
テレビが大本営の誘導に従い、弱い立場のものの自粛監視の先頭を切っている。もちろん大多数の国民の正義のために自粛の徹底をしなければいけないのは間違っていない。間違っていないからと言って、他人まで責めるのは正しい行動とは限らない。
政治家の姿はまるで見えない。石垣島では自粛要請のさなか、自衛隊基地の建設や、自衛隊との契約はドンドン進められている。住民投票の裁判も延期され、市長のリコール運動も中断。反対の声が上げにくいこの機会を好都合と考えて一気に自衛隊と土地契約をしてしまった。火事場泥棒が横行している。検察官の定年延長問題もコロナ対策費と一括審議である。
与党にこそ、自粛を要請したい。国民が気持ちを合わせることが何より大事なときに、何故こんな法律の解釈をゆがめたような、法治国家とは言えない検察の人事を持ち出すのか。司法を言いなりにしたいというアベ政権の見苦しさである。石垣市長の自衛隊誘致の野望である。
国会議員には自分の視点からコロナウイルスのことを考え、主張すべきだと言いたい。原発事故の反省が生かされていない。科学性である。議員の中から、感染症に対して的確な意見が出てこない。議員に専門性がないことが情けない。議員がダメな以上、法律的に独立した感染症対策委員会を専門家できちっと立ち上げるべきだろう。
今のやり方は、政府は感染症の専門会会議の意見を、都合良く言い訳に使っているに過ぎない。この曖昧さが自粛要請という、日本独特の統制の仕方で国民に心理的に強制をしている。自粛要請という理想主義の危険な側面を感じる。
国会の記者会見の入場が制限されている。密にならないためと言うことが理由だ。なるほどとも思うが、同時にこう言う形で大本営報道が作られるのかと思う。大手の報道機関に一人づつ割り当てが来る。当然フリーランスの人は入場しにくくなる。
しかし、今一番必要なことは政府の監視である。非常事態宣言がなされ、国に権限が集中している。国民の権利に問題が起きて居ないか、十二分な監視をするのが報道の役割である。しかし、そんな骨のある報道ではないようだ。監視どころかコロナとの戦時中と言うことで、足並みを乱すような報道は控えた方がいいという、姿勢が広がっているのではないか。
報道に問題意識が欠けている。せいぜい頑張っているのは週刊文春とプレジデントと東洋経済ぐらいだ。アベノマスクの不自然さの原因を何故徹底究明しない。なぜ、朝日新聞は2枚3300円の町おこしマスクを揶揄して取り上げたアベ氏にもっと怒りをぶつけないのか。
原発報道でも報道が先導して、原発廃止を主張すべきだったのだ。コロナでもそうである。なぜ、十分な医療物資が準備されていなかったのか。韓国に比べて何故、PCR検査がこれほど遅れているのか。台湾に比べて、マスク配布が何故うまくできないでいるのか。
報道がしっかりとした科学性を持ち、批判的視点を持たなければ、民主主義は育たない。八重山日報は常日頃正しい姿勢のある報道だと感銘を受けることが多かった。ところが、コロナに関する報道では正しい科学性を示していない。視点は世界にと言うのであれば、石垣市のコロナ対応を正しく批判すべきではないか。
非常事態宣言の中、教育はどうあるべきか。石垣島の子供達には教育は保障されているのか。石垣島で学校を休校にする理由はないと私は考える。離島の医療崩壊の不安が強く言われるが、実体はどうなのか。観光客の来島自粛の実態はどうなっているのか。どこに人の密が起きているのか。そうした調査報道をするのが、報道の義務である。
全国放送のテレビで真栄里ビーチが密が起きているかのように報道された。果たして事実そうなのか。FM石垣は目の前のビーチで起きていることにもかかわらず、そのことを伝えようとしない。住民は状況を見に行くわけにも行かないではないか。
今名蔵湾では釣りをしている住民がいる。潮干狩りをしている人もたまに見かける。バンナ公園ではジョギングしている人が居る。許される行動だと思う。市は公園を閉鎖して綱を張っている。理由が分からない。むしろ運動は感染防止のために奨励されるべきことだ。感染を広げるような場所ではない公園もある。家にこもりっきりで日光にも当たらないのでは、免疫力は下がる。
運動も必要である。コロナウイルスの危険を科学的にわかりやすく説明するのが報道の役割である。問題はここからである。経済が危機的な状況である。報道はコロナとの戦争の撤退作戦をどう考えているかである。どこで来島自粛を終わりにして、観光客歓迎に変わるのかである。
コロナとの戦いは、日本安全保障と同じ、専守防衛である。この戦いは敗北戦である。敗北処理ほど難しいものはない。特にこれから始めなければならない、経済再生は長い年月を要するだろう。経済再生の道を正しく歩むためには、正しいコロナとの戦いが必要だと思う。
戦後社会の民主主義の志はどこに消えたのだろうか。世界各国が強制力を持って、都市封鎖をしている。ところが日本はあくまで自粛のお願いである。自粛で克服することは理想的である。伴う問題もある。自粛は範囲が分からないから、おかしな過剰抑制が働く。
コロナ警察が各地で立ち上がるのだ。海岸に出ている人は居ないか。スーパーで列を詰める輩はいないか。この非常時にパチンコとは何事か。人間は正義だけで出来ているわけではない。マスクに柄があるとは精神がゆるんどる。などとなりかねない。
この非常時に種子法が審議されているそうだ。農文協では農家の自家採種が禁止されるのではないかと疑問が出されていた。元農水大臣の山田正彦氏のブログでは自家採種が禁止されると書いている。読んだところでは、そんなことはないのではないかと私には読める。農文協では自家採種が禁止になると主張している。
と言うことは、私の読み方が不十分なのかもしれない。この法案に関して、報道機関は調査報道をしているのだろうか。たぶん見過ごしているのだろう。例えば有機農家では自家採種が基本である。そもそも有機農家が新しい登録品種を使用するというようなことがあるのだろうか。伝統的な品種を継続して自家採種している。そういう品種の自家採種の自家採種が禁止されるとは私には読めないのだが。
いずれにしても、問題のある法案が十分審議されるのかどうかが心配である。国民にはその内容が良く伝えられないまま進められることは、いくら非常時だからと言ってこういうことはあってはならない。
国を挙げてのコロナとの戦いである。国防費のなかの不要不急の部分はコロナ対策に回すべきだ。石垣島の自衛隊工事を一時中断するのは当たり前のことだろう。辺野古米軍基地も一時中断だ。ジェット機の購入など不要不急である。