給食で残ったパンを持ち帰った立派な高校教師

   



2015年6月~19年6月、学校給食で残ったパン約1000個と牛乳約4200本(計約31万円相当)を持ち帰ったとして、市立堺高校の男性教諭(62)(25日に依願退職)を減給10分の1(3か月)にした。

 高校の先生が、給食で残ったパンと牛乳を自宅に持ち帰って食べていた。立派な行為である。一体何故この教員が処分されたのか。不思議でならない。確かに、法律を持ち出せば、犯罪行為と言えないことも無い。廃棄しなければ行けないと決められたものを有効利用してしまった罪である。

 この行為は立派な善行である。むしろ生徒に模範として顕彰してもいいくらいである。教育委員会は学校給食が無駄に捨てられている現状をどう考えているのか。その教育的な問題点には目を向けず、持ち帰っていた教員を処分するなど、本末転倒である。この馬鹿げた教育委員会こそ処分されるべきだ。

  養鶏をしていた頃、小田原市に学校給食の残渣の利用をお願いしに行ったことがある。実際はすでに貰っていたのだが、それを正式なものにしたいと考えて交渉に言った。違法行為だから、即座に止めてくれとなってしまった。

 この教師は処分に対して依願退職したという。確かにこんな不当な処分に耐えられない思いだったのだろう。給食残渣には長年の養鶏業をしていたものとして、悔しい思いがある。有効利用できるものを廃棄処分しなければならない法律とは何か。

 まだ食べれるものをごみとして焼却処分している事を正しいとする、教育の問題点である。そして、それでよしとして手を打とうとしない行政の姿勢である。給食は食育である。食べればそれでよしというものではない。教科と少しも変わりのないものなのだ。

 私は給食を食べきれないで残していた。それで怒られてばかりいた。食べ終わるまで食べていろというので、午後の授業時間にも食べさせられていたこともある。こんなことが食育であろうか。生徒の多様性というものに気づかない教師。

 私は食が細かったのだ。虚弱児童の典型的な子供だった。小学生は大食漢もいれば、ある意味病で小食の子供も居る。それを同じ量だけ食べなければ許せない教育を恨んだものだ。持ち帰ることが許されなかった。吐いても今食べろという狭い視野の教師。

 こうした教育に潜む、融通の無い所。教条主義。建前主義。それが、廃棄されるパンの持ち帰りを犯罪としたのだ。食品廃棄が問題になっている時代に、食べられるものを持ち帰った教師が処分される。こんな処分をよしとする、社会のゆがみが怖い。

 この教師は多分こういう事態を憂いたに違いない。少なくとももったいないと感じたのだ。正しい感受性である。本音としては教育のおかしさに警鐘を鳴らしたかったのだろう。その通りの結果になったようだ。日本中が堺市の教育の異常さを知ることになった。この教師の犠牲も無駄ではない。むしろ生かさなくてはならない。

 食べ物を無駄にしてはならない。これは教育の大きな目的である。食育がないがしろにされるのであれば、学校教育など止めた方がましなくらいだ。子供は多様である。体調もその日によって様々である。給食は余るものである。余って健全なのだ。それを焼却処分にしなければ、法律違反という制度がおかしい。

 例えば、それを子ども食堂に融通する。なにしろ、ご飯納入業者は輸送車一台分のご飯を余分に準備しているそうだ。車の事故があったときに対応するためだそうだ。それは使わず廃棄すると説明していた。今でもそうだろうか。

 そのご飯は無事車の到着を確認したら、子ども食堂に運べばいい。必要としている場所はあるはずだ。それができない法律があるのかもしれない。そういう良いことをすれば、法律に触れると言うことを疑問に思わない社会は変である。

 小学校ではイネ作りの授業を行うべきだ。食べ物がどういう過程でできるのかを学ぶことだ。身体を使いイネ作りを行えば、まさか炊いたご飯を焼却処分することを、まともなこととは思えなくなるだろう。

 一次産業から離れてしまった人間は、身体を使い物を作るという最も大切な感覚を失う。食べ物がもったいないという気持を失う。つじつまが合えばそれでいいと言うことになる。それが、デパートの食堂ならまだ許されるかもしれない。しかし、学校の食育の中がこれでは困る。

 もったいない。そう感じた教師の感覚は大切にされるべきだ。その思いこそ教育だからだ。食べ物を尊いものという基本を忘れてしまえば、教育ではなくなる。大切な食べ物を廃棄処分にしなければならないという法律を守る人間の哀れ。


 - 暮らし