震災でいっぱい死んだから、
「いままでなんども死のうとおもった。でもしんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた。」「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。」今年胸をえぐられた、4つ目の事件である。言葉には人間を動かす力がある。フクシマから避難した中学一年生の手記である。補償金を貰ったのだろう。と脅されてお金を搾り取られたという。こんな悲惨で悪質ないじめを見逃していた教育というものを、総点検する必要がある。何かがおかしくなっていることだけは確かだ。4つの重要な弱者に対する気になることがある。一つ目は神奈川県津久井町障碍者17人を殺害した、元職員の事件。この事件は何かの予兆のように思わせるものがあった。2つ目は「保育園落ちた日本死ね。」匿名のブログの言葉が、社会を騒然とさせた。3つ目は大阪の機動隊員のやんばる高江のヘリポート反対の人への「土人発言」。
この4つの事件が起きた年を、きっと10年後にあの時のことだったと思い起こされることだろう。日本の方角は大きく転換したことの表れなのだ。世界の潮流の中で、停滞の渦の中に巻き込まれ、飲み込まれ始めた年だったことを知ることだろう。日本はこの20年停滞をしてきた。それは高度成長した経済後進国が必ず到達する場所である。停滞の渦から逃れて本流に乗り出そうとあがいた20年だったのだろう。しかし、ついに力尽きて淀みの中の浮遊物に紛れて前に進めなくなった。今年はそうしたことが明確になった年だった。それでもアベ政権は3本の矢が見当たらないことを認めない。誤りを認めずにただもがき騒ぐばかりだから、停滞の淵に沈んでゆくことになった。渦から脱出するためには、まず渦をゆっくりと観察する必要がある。ところが、いまだ本流にいると考えているアベ政権はこの停滞の渦の実態が見えない。まず、アベノミックスの失敗を認めるところからだ。
格差社会である。アベ政権は韓国方式の後を追っているのだ。このまま行けば、韓国の二の舞になる。韓国は農業を見捨てた。心の拠り所である韓国文化を失いかけている。国際競争力の中で、英語を初等教育にまで行う事は、日本語教育が充分にできなくなる可能性がある。これは国語を日本語から英語に変えようとまでした明治政府の政策と同じことである。国際的であるという事は、深く自分の文化を持っているという事だ。日本の芸術が世界に評価される理由は、日本文化という伝統に裏打ちされているからだ。それを失いつつある現状では、遠からず日本文化は過去の文化遺産になるだろう。この、日本文化という安定を失いつつある結果が4つの事件を生んだ。弱者を切り捨ててしまい、評価できない社会。能力主義を正義として、競争に翻弄される社会。人間の幸せを、経済だけで見る社会である。柳田国男氏が明治の椎葉村で見た、心穏やかに生きている人たちの幸せは何だったのかを思い起こすべきだ。
日本全体のことはもうあきらめるしかないのかもしれない。弱者が差別を受けて当然というような、すさんだ社会にさらになることを覚悟せざる得ないだろう。せめて、心の通じ合うもので繋がるほかない。私は自給自足の安定を求める。競争社会では友人すら作りがたい。価値観を共有できるものの集まりである。あしがら農の会、水彩人の2つの仲間の中でやってきて痛感することである。大きい必要もないし、競争もない。種を蒔くことに真剣に取り組めるという、仲間であればいい。2人でもいい。3人でもいい。少数派であることを畏れない。社会的評価など関係がない。大きい必要は全くない。緩やかに。穏やかに。認め合えるだけで十分である。農の会は4,5人で始めたものだ。水彩人は6人で始めたものだ。一人に話しかけてみることから始まる。分かり合える人は必ずいる。と言って明日消えたところで全く問題がない。どこでも誰でも始められるものだ。