安全保障法案を最高裁にかけろ。

   

安全保障法案が憲法違反なのかどうか。成立する前に、最高裁で判断してもらうというのはどうだろうか。それで、最高裁でも合憲と言うなら、それはそれで筋が通っている。しかし、法律が憲法違反であれば、この法案は取り下げる。憲法裁判所というものがあればの話なのだが。フーテンの寅さんが「べらぼうめー、最高裁に聞いてみろ。」と啖呵を切っていたのだ。法律を作ってしまえばどうにでもなるというのでは、三権分立の議会制民主主義国家が成立していないということになる。たとえば、徴兵制を実行したいとする人がいる。それが世界の普通の国家の在り方だというような意見もある。自民党の議員の中には、すでに戦争に日本が参加する時に、拒否する若者は日本人として恥ずべきだというような意見が出てきている。さすがに、国会では徴兵制は違憲だからあり得ないと、今のところの国会答弁である。しかし、いつ憲法解釈が変わるかは、今回のことがある以上わからない状況である。現に集団安全保障は違憲とついこの前まで、同じ人が答弁していたのだ。

解釈偏向でどうにでもなると考えているのが自民党のやり方だ。最高裁が信頼でき物かどうかも確かに、疑問はある。しかし、国会だけで判断するより、法律の専門家であれば、また違う見方もあるはずである。せめてこれだけ大事なことなのだから、そのくらいの手順を踏んでもらいたい。今回の法改正は、日本の国防に関する重大な変更だ。今まで日本の防衛はアメリカ任せであった。日本はそれに変えて、アメリカ軍に基地を提供し、費用も思いやってきた。しかし、アメリカもさすがに限界を超えて、日本に協力を要請している。180度の変化だ。この法案が通れば、日本は軍備的にいろいろ変わってくる。今回のように解釈変更を許せば、自民党は、安部政権は、憲法解釈の変更で何でもやれると考えるようになるはずだ。それが静かな独裁政治の始まりになりかねない。憲法の解釈変更は最高裁の判断を待つ。

安全保障法制が違憲ということもあるが、憲法の改定ということが日本人にとって重要なことになる。憲法を改定せず、解釈を時の世界情勢に応じて広げてゆくというやり方は、いかにも日本的なやり方ではあるが、限界がある。自衛隊を持った時にすでに憲法違反であった。憲法には改正という言葉が使われているが、変われば改正であるが、それまでは改定という言葉を使うべきだと考えている。国民投票にかけるまでは、正しいことなのか間違った修正なのか。それは決められないことだからだ。憲法裁判所が必要になる。今の裁判では、砂川判決のように、憲法そのものから判決が出たわけではない。一つの事例においてそういう判断が下されたに過ぎない。だから、判決を過去の事例にしようにも、これまた解釈次第ということになる。立法権の上に立つ裁判所が必要になっている。このままでは三権分立が成立しないことになる。現行法では、法律自体の憲法違反を裁判する仕組みがないらしい。

「武力攻撃を受けた他国からの要請や同意がなければ事態認定されない。」今になってなって防衛大臣が答弁を修正した。こんな不安定な安全保障法制が強行されるていいのだろうか。今日は国会で100万人デモである。国民が自民党を多数派にしておくことは、さすがに危険だと感じるはずだ。国会が国民の意思を反映する歯止めなのだ。国民の意思を正確に反映する選挙制度に変えなければならない。現在の小選挙区制では、公明党のような意味不明な行動をとる政党が、政治をでたらめにしている。平和の党を自称していた政党が、なぜ安保法制に賛成するのか説明責任がある。公明党の選挙協力がなくなれば、自民党は議席を大きく減らすはずだ。その時は公明党もなくなる。安保法制が成立しても、自民党が議席を減らさないようなら、日本に期待することはもうできない。経済も暗雲が迫ってきた。日本の大きな岐路にある。小手先の手段は出し尽くしている。いよいよ正念場が近づいている。

 

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