イスラム国と呼ばない
この所イスラム国と呼ばない報道が増えた。ISと呼ぶが、これはそもそもアイスランドのことではなかったのか。ISになってから、その存在の把握が私にはより難しくなった。集団としての意味不明の存在になった。言葉は難しいものだ。やはり、イスラム国と読んだ方がいい。国と付く事で、問題の深刻さを感じるべきなのだ。ISISアイシスとも呼ぶようだが、ただでさえ実態のつかめない存在がますます意味不明である。イスラム原理主義のテロリスト集団と言ってもだいぶ実態とは違う。その規模と深刻さからも、国を付けた方がいい。国とは何かという事がここにはある。どうも日本政府がイスラム国をやめたのは、国というものの条件が無いと言いたいのではないか。国というものは、大きさでも、人口でもない。支配地域のもっと小さな国というものはいくらでもある。実効支配の程度はどうか。シリアあるいはイラクの一定の地域はは完全に支配をしている。支配する憲法の様な物があるかと言えば、まさにイスラム原理主義の宗派的コーランの解釈がある。
クリミヤ半島の独立も、ロシア編入も、ヨーロッパ諸国は認めない。それに従って、日本もあいまいに同調している。日本自身の考え方というより、アメリカに言われるままにすぎない気がする。国というものについても、安倍氏と私では大いに違う。日本国というものの伝統的文化こそ、イザヤペンダソンの言う日本教が国家原理だと思っている。日本文化というものを失えば、国家の恰好はしていても、そんなものを日本とは呼びたくない。勿論、時代とともに日本という国がらも変わるのは当然のことである。しかし、失ってはならない日本というものがあると思う。以前皇室は奈良に戻るべきだと書いたら、ネトウヨと思われる人達が、一斉に批判した。全く皇室の意義を理解していない。東京にいて、国家権力と結びついた皇室という、明治時代の帝国主義発想に縛られている発想だ。本来の保守主義であるなら、まず日本の国柄を認識して、その日本国を守る保守を主張すべきだ。多分天皇家が何故田んぼをやっているのかという事すら、理解できないのではないか。
近代的国家というものを自覚する前に、日本人というものは成立していて、日本的文化というものを醸成していた。本来国というものはそういうものではないかと思う。そのときに、イスラム国はやはり国と呼ばざる得ない存在である。イスラム原理主義という、他文化を拒絶する異様な民族主義、宗教主義を持った集団である。そのとんでもない連中をどう扱えばいいのかというときに、そもそも国というものは何か、それは実に排他的で、許容度の無いものであるという、共通原理に立ち戻らざるえない。日本はアイヌ民族を例外として、ほぼ一つの言語の民族である。しかも、日本列島という、一地域に居住して長い。日本で生まれれば日本人になる。しかし、果たして日本文化というものを持たないものを、日本人と呼んでいいものだろうか。例えば、日本語を放棄するという考え方もある。企業等は既にそういうシステムの方が利潤を上げやすいといういことになっている。それは既に、日本の企業ではないという事になるのだろう。
世界がグローバル化する傾向は、さらに進むだろう。だからこそ、日本人としての文化をはぐくむ必要がより強まる。グローバルである根に、地域性が求められる。それが日本人として素養なのだろう。そして日本という豊かな自然を生かして暮らしてゆく。たとえ日本の社会に、他民族が入るとしても、日本的な文化を身につけて行くと言う事が大切である。イスラム国の事であった。イスラム国には、世界中から過激思想の持ち主が集まるようだ。それは現代社会が行き詰まっている様相の表れのひとつに見える。能力主義社会の行き詰まりなのだろう。イスラム国は、犯罪集団であり、言語道断ではあるが、そんな国が産まれてくる現実社会の問題点をも、良く分析して行かなければならない。