樹木希林さんのインタビュー
妙高山いもり池 中盤全紙 早朝である。昼間はとても人が多くて、描ける状態で無かった。妙高には描ける所が沢山あるので、時間時間で動きながら描く事が多かった。
キリンさんが上手い事を述べている。内面的な難しい事で、表現しにくい事をこんなに上手く語る人はいないと思う。何故か判らないのだが、その昔、キリンさんにファッションをほめられたことがある。このきたない私の身なりをである。身なりを意識することはほとんどないので、破れたような服で、どこにでも間違って出掛けてしまう。作業着をいつも来ているにすぎない。それなのに何故か自然で良いというような意味で、慰めてくれたのだろう。役者というのはファッションセンスが悪くて、着飾って見苦しいものだというような事をその時言われていた。心の暖かい人だと思った。もちろんキリンさんを知っている訳ではないのだが、長沢節さんの所に見えた時に2度拝見した。オーラなどまったく隠してしまい、普通に見える人だった。この動画のインタビューには無いのだが、自分は完成しないまま、駆け出しとしてそのまま今ここに居る。というような事を言われていた。その感覚が私なりに理解できた。
45年前の金沢の馬小屋で目覚めたような気がする朝がある。絵を描いてゆこうと決意したころのことだ。先日、水彩人の仲間の大原さんから、笹村さんは二頭追うから、絵の結論が出ていない。これこそが笹村だというような絵を見せてもらった事が無い。結論を出す絵を描かないとダメだろうと言われた。全く的を得た、心に深く沁みてくる意見を聞かせてもらった。これだから、水彩人は価値がある。よく分かる有難い言葉だ。恥ずかしいが確かに自分自身自分の絵をまだ描いていない気はしている。自分の見えている世界を表現できたことはまだない。キリンさんが役者というものは時代というものを写す、自分の体を通して写すようなものだと言われている。自分という人間の身体が時代や社会を通過してみせる、鏡のようなものというような事を話された。絵もまさにそうで、私が見ているという事は、私という存在が感じたり、把握したりしている現実を眼というもので、見て。それを画面で再現しようというものだと思う。大原さんはそれが出来ていない、いや、挑戦していないと言われたのだと思う。
全くその通りで、痛い事だし、残念なことで、情けないことだが、認めるしかない。大原さんの仕事は、常に結論を出している。若気の至りで出す結論だから、不十分であったり、人まねを感じさせたりしているのだが、結論を出す事が出来る努力と才能がある。確かに1頭を追っている感がある。具体的に言えば、今、出来る事を、出来ますと見せる。私はできる事は忘れよう、忘れようとしている。忘れて、いつかできることを期待して、ただ見たというように眼と手に任せて描こうとする。絵を創ろうとか、自分の絵を完成しようとかしないというか、出来ないのである。この事を意識させてもらえた事はありがたい事だ。
キリンさんが時代の鏡になる事を感じたというのは、ある領域に達したという事ではないのだろうか。病気をした為に、自分の残りを感じたのでそういう意識になったと言われている。人生の達人の言葉である。絵を描くという事は、自分の成長をまたない限り無理なことではあるのだが、大原さんの言われるように、又やっているように、そのときの結論に向かわないというのも、何処か逃げがあるという事になる。キリンさんが自分の存在を通して表現しているものは、他の誰にも表現できない、存在の生そのものでありながら、演技であるという。何か不思議なものだ。絵を描くという事もまさにそうした事で、今すべてを出しつくせないものが、それが借りてきたものであれ、盗んできたものであれ、何でもかんでも掛けて勝負できない人間が、いつかできるもないものだと思う。それはやはりいつになってもできないという事なのだろう。そう振い立って、本気で絵という一頭に向かおうと思う。