藤田嗣冶の絵の評価

   

明神岳山麓の畑 中盤全紙 良く通る道の脇である。畑も比較的良く耕作されている。

フジタは確かに世界での評価という意味では、生きている内に評価された、ただ一人の日本人画家といっていいだろう。そこまで評価された絵描きは他にはいない。しかし、私には絵画とは思えない。フジタの表現はイラストである。それは彼の生涯を通しての絵を眺め渡せば見えてくることだ。イラストであるから、悪いということではない。イラストとしては良く出来ている。絵巻物もイラストの一種と言えばいえるので、近代絵画ではないと言った方がいいのだろう。近代絵画ではないから価値が無いという意味ではない。近代芸術ではないと言う方が正確かもしれない。芸術には、作者個人の思想哲学が必要であると考えている。藤田嗣治の絵は、私が考え、描こうとしているものとは、かなり異なるという意味だ。イラストという意味は、説明図ということになる。ある意図を上手に説明するのが、よいイラスト画ということに成る。絵画とイラストの違いを説明するなどということは、まだろっこしいことだが、簡単に違いを言えば、作者の思想・哲学があるかないかである。作者の自己表現に成っているのが、芸術としての絵画であるということ。

フジタは依頼に従って、あるいは受けそうなことは何でも絵にした。猫の居る裸婦でエコールドパリのフランスで評判を得る。世紀末的気分、ジャポニスム。いかにも日本的工芸技術を駆使した、受け狙いが的中している。画面にフジタの本質とか、思想とかいうもの見ようとしても、存在していない。この考えではほとんどの絵がイラストいうことに成る。だから世間一般の評価ということでは、案外にイラストが評価されているので、私の考えが少数派である。世界で評価されたから、芸術的に高い境地にあるとは到底言えないのも確かである。特に、現代は商品絵画の時代である。売れるものが投資として良いものなのだ。文学賞でも受賞を商機ととらえて、販売側が多様に賞を作っている。絵画でも同じことで、何とか絵を売りたい。売れる絵は何かと、探っている。商売に成るということが、商品の意味であるから、時代が商品絵画を作り出している。しかし、芸術というものは、売れる売れないが関係ないのは当然のことだ。だから、「私絵画」である。

フジタは、日本に戻り、戦争画も描いた。依頼されて、秋田の風物を描いてもいる。評価されるものを何でも描けた。別に悪いということではない。秋田の風物画は平凡なもので、今評価する人は少ないだろう。そういう生き方もあるということだ。フジタの生涯全体でその絵を見なくては見えないことがある。フジタの戦争画は玉砕を美化するイラストとして描いている。アッツ島玉砕。サイパン島玉砕。当時フジタの絵は全国を巡回し、絵の前には賽銭箱が置かれ、絵を拝んで賽銭を入れたそうだ。あれがフジタ絵画の本質であるなら、フランスで評価された絵はどうなるのだろう。猫のいる裸婦像は世紀末の退廃文化を暗示させる風俗画である。猫がいると言うことは、娼婦ということを意味している。マネのオランピアの受け売り。フジタは当時のフランスで受けそうで、日本人にしかできないような技法を確立する。磨き上げたマチュエールに面相筆で細密的に娼婦を描く。この精神のまま、日本に戻れば秋田の風物詩を描き、戦争画を描く。イラストレーターらしい仕事である。絵の背景には、迎合的な心情や生き方が、見え隠れしている。

フジタ本人にもどこに本心があるのか不明になる様な陶酔がある。この陶酔の尋常なさが、実はフジタの絵である本質部分だ。これは、萎えたような日本の風物にも、玉砕の場面にも、猫の居る裸婦を描く場面にも共通して立ち上る気配。どの絵にも尋常じゃない病的な熱情が秘められている。その只者でない何かがフジタの絵画と言えばいえる。たぶん本人も意識はしていない異常さの様なものが絵に成っている。エコールドパリという不健康な病的な絵画の時代の影響もある。しかし、絵画というものが何を目指すものであるのか。病的な人間の病んだ世界を表して、評価の高い作家もいる。ヒエロニムス・ボスの絵は悪夢のような、奇妙な宗教画である。絵画がすべて健全でなければならない訳ではないが、私の考える世界とは違う。結局絵はその人の生き方である。フジタの生き方がフジタの絵であるとしか言いようがない。

 - 水彩画