日本の義務教育に英語はいらない。

   

下田の夜明け 中盤全紙 ファブリアーノ 夜明けは色々書いている。夜明けを描くときは、この世と言うものを始めて見たときと思う。それぐらい新鮮で、真新しい。

日本の初等教育に英語が教科として取り入れられている。これは義務教育の間違った方針である。2つの理由がある。将来英語を必要とする人は、日本人の1割もいない。寺沢拓敬 / 言語社会学-シノドス英語を使う人は日本人全体の5%未満であり、むしろ必要とした人は減少してきている。この数字は、かなり精度がある調査に基づいたものと推測できる。もう一つの理由は、日本の義務教育に農作業がないことだ。義務教育は新しいものを入れれば、その分何かが押し出される。現代の教育は知育に偏重し、作務教育と言うべき分野がなくなっている。英語を必要とする人は、学問をやる人や、海外に進出するグローバル企業の人材である。そうした人が存在するのは構わないが、何も義務教育にまで及ぶ必要はない。学びたいと考えた人が、自由に公教育以外の場所で学べばいいことだ。特に初等教育は全人的もので、企業に役立つ技術を学ぶのであれば、義務教育以外の所で行うべきものだ。

遠からず、優秀な言語変換機が登場する。すでに、インターネットでは役に立つレベルに、言語変換機能がある。今の小学生が大人になる頃には、必ず機械に代替できる事になる。義務教育で学ばせる目的は、英語のような実用的な意味であっては成らない。国際社会で活躍できる人材と言うことが言われるが、日本と言う国ならではの文化を体得した人こそ、国際的な人間である。人間がただの言語変換機であれば、企業であっても意味をなさない。このことを痛感したのは、フランスで2年半暮らした体験である。当然フランス人の様にフランス語を話す日本人とは沢山出会った。しかし、日本の文化を身につけていると言う人には、全くと言っていいほど出会わなかった。多くは絵を描く人であったのだが、日本人でもなく、フランス人でもない人の絵は、私には意味が無かった。フランスで見た棟方志功の絵は、ナショナルであることを極めることが、インターナショナルに成る。と言うことを示していた。と言って、東山魁夷の日本画はやはりインターナショナルではない。

初等教育で必要なことは、日本人としての基本的な教養である。当然まず国語である。これは一番重視しなければならない。そして、理科、社会、も必要。算数もある程度は必要だろう。美術はどうだろう。私は学校教育で行う必要はないと思う。美術技術を含めた、全体としての作務教育を行うべきだと考える。家を作る授業。庭を作る授業。畑を作る授業。食事を作る授業。衣服を作る授業。それを通して、何が美しいのかを自然に知ることになる。日本人として、日本で暮らして行く人間としての素養を身につけてほしい。義務教育で学ぶもの、特に小学校では、暮らしで使えるものに限るべきだ。それはどの教科でも同様で、算数であれば買い物ができる程度の計算は出来なければ暮らしに困る。しかし、高等数学のレベルになれば、義務教育では学ぶ必要はない。数学的な考え方を身につけることは大切であるが、それは、初等教育ではない。子供の内に作務教育を身につけておけば、必ず暮らしが豊かになる。本来の日本人の暮らしが失われてきている。だから、あえて義務教育の中で行う必要がある。

小学校の年代で最も必要なことは、日本語で考える能力である。その意味で、英語を将来学ぶとしても、日本語を十二分に深めない限り、言語感覚の大切なものが育たない。日本語で考えると言うことなしに、日本人には成れない。次に必要は物は暮らしの技術である。分りやすくいえば、ダッシュ村である。ダッシュ村を小学校では併設すればいい。日本人の本来の暮らしの魅力は何かを知らなくてはならない。それは、お金で何とかなる様なものではない。本当の豊かさとは、どんなものかを子供の内に学んでほしい。そうすれば、何でもお金で解決できると考えるような人間にはならない。英語を身に着けさせようと言う考えの背景にあるものは、企業で役立つ人間作りだ。こうなってしまった以上、それに毒されないことを願うばかりである。

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