危険ドラックの問題
鞆の浦 仙酔島 ここは面白い場所だ。関東の新開地的な荒ブレた空気とは、まるで違う歴史の重みが漂っている。
危険ドラックが交通事故の原因となっているということで、にわかに注目を浴びて、名前も脱法ハーブから、危険ドラックに変わった。麻薬の一種であるが、次々に材料の化学的構造を変えるために、取り締まりの網の目をくぐってしまう。要するに現実逃避の薬のことだ。今の薬事法の取り締まりでは、法的な取り締まりが難しいのは当然のことで、脱法的な変化は無限にできると言う。イタチごっこでいえば、すでに追いきれなくなっている。追いきれないだけでない。麻薬と言うものがなぜいけないのかということを問題にしない限り、矛盾は解消されない。私個人でいえば、合法的な薬剤であっても、つまり医薬品であっても、必要悪であって、好ましいとは思わないし、できる限り拒絶している。今までの禁止麻薬は常習性が生じる。人体に害がある。幻覚等に精神をおかしくする。等の問題があるとされてきた。それも様々なはずである。
しかし、たばこより害が少ないとか、お酒より中毒性は低いとか、色々言われている。少なくとも、いつかは安全な麻薬が登場するに違いない。そんなアメリカ映画があった。果たして、危険ドラックの将来を考えたら、有害性により禁止という発想はできないことになってゆく。つまり、使用中に車の運転などすれば、それは、酒酔い運転と同様で、大きな事故を起こす可能性が高い。一人で監視のない所で使えば、幻覚から他人に迷惑をかけるような行動を起こす。ただし将来、中毒性が無く、人体に害もない、ただ陶酔状態になれるドラックと言うものが出来たなら、どう禁止できるかということである。こういうものが、社会に蔓延したとすれば、社会の倫理が崩れるということがある。倫理に関して法律で取り締まれるというものではない。この部分に踏み込まない限り、どうしようもない。こういうものは取り締まれば取り締まるほど、蔓延してしまう。
禁酒法である。アメリカで施行され、失敗した法律である。お酒を飲めば、危険運転である。危険ドラックと同じことが起こる。アルコール中毒患者を考えれば、お酒に中毒性がある点は明らかだ。飲み過ぎで病気になる人は後を絶たない。しかし、お酒は合法化されている。お酒より安全で中毒性もない、そして酩酊できる薬が登場することを前提に、対応を考えておくべきだ。スポーツ選手のドーピング問題に似ている。薬の力を借りて、強く成ることはフェア―ではないが、金メダルだけを価値あるものとして世間が扱うから、チェックをかいくぐる薬はきりが無く登場する。今の社会の勝者以外を評価できない価値観を反映している。警察の取り締まりかたでは、問題は深刻化して行くだろう。危険ドラックの我を忘れる効能が、いかに強いものであるかを宣伝しているようなものだ。
ミュージシャンや作家が麻薬に溺れるということはよく聞く。創作の行き詰まりを薬で紛らわす。あるいは薬で起こされる幻覚を創作の一助にする。麻薬の力を借りて創作された作品をどのように考えるかである。作品を商品と考える時代であれば、一度商業ペースに乗ってしまい、その中で新しい作品が出来なくなった苦しみから、薬に手を出しても新しい作品を作らなければならないという、周囲からの圧迫がある。作品が商品であるこの時代ではそういうことは常に繰り返される。作品と言うものが、自分と言ういきものの生き方であり、その反映であると考える私絵画の世界では、有り得ないことだ。どこまで透明に自分と言うモノの深部に入り込んで制作するかということが、重要なだけである。薬によって異次元に行ってしまえば、自分を探索することはできない。人間が生きるということは、そもそも自分と言うものにどこまで到達できるかだと考える。だから、麻薬によって自分から逃れると言うのでは、本末転倒ということになる。