川村良紀個展
川村良紀さんの水彩画展を初日に見た。銀座のサムホールで6月13日(土)までやっている。水彩画を志す人は、見た方が良い展覧会である。水彩人を作った仲間の一人だったのだが、今は水彩人は辞めた人だ。若い時代にとても高い評価をされた人なのだが、しばらく絵を中断していた。若いころから工務店をされていた。今も工務店をされている。そしてまた絵を再開した頃、もう30年も前の事になるのだろうか。一緒に研究会を始めた。その後水彩連盟の代表になった。大きな公募展の代表になるような人だから、そういう人である。そういう人がどういう人かはえも言われぬ所だが。それぞれの考える所であるが、ともかくそういう人であるとしか言いようがない。水彩人の創立の仲間は、皆水彩連盟を離れて、水彩人として独立したのだが、川村さんだけは水彩連盟に残った。これについては、とても残念であった。良い仲間を失ったという事になった。川村さんの絵を理解できるような人は、水彩時連盟には少ないと思うがどうなのだろう。
独特の世界観をもって制作されている。人間というものはそう簡単なものではないという事を、川村さんの絵を見るたびに思う。川村さんの事は、川村さんの絵でしか知らないと思うように、川村さんの絵は川村さんの人格の複雑さを表している。功名心は強いようであり、それを全くカマトトぶっている様な、平然とした、つきぬけた純粋さがある。つまりあまりに露骨に人間的な絵なのだ。きれい事ではない、野心とか、偉そうな所、評価されたいという心。そういうものが、透明な幽玄的世界に、透けて存在する。この裏腹のすごさが人間なのだろう。そういう人間が絵に立ち上る所が、他の人の到達できない所なのだ。それがあまりに正直で、露骨であるから、けた外れの人と思うしかない。これほどにどん欲な人だから、絵の方も成長を続けるのだろう。何処まで行けるのだろうか。このあたりが川村さんの結論かもしれないと、今回は思った。それ程すご絵だった。
勿論良い時もあれば、悪いとこもあったのだが。今回の個展は相当にすさまじいものであった。勝手な言い分だが、自分がまだまだだということを思い知らされるものであった。川村さんの絵は、自分勝手さが強まった。自己否定が出来た。簡単に言えば自由になった。受けそうな絵も描いているし、全く受けないだろうと言う絵も描いている。水彩画の怖さと、可能性を、はっきりと示していた。随分と冷めた人なのだ。川村さんは70になるのだろう。その歳になって、一歩前進すると言う所がすごい。しかも、全く絵が途上なのだ。結論で描いていない。あくまで自問している過程なのだ。その人自身の日常の目の生長が、絵の研究過程を示している。それが、あらゆるいい加減差と、手慣れと、何もかもが混然となっていながら、ある自由を確保している。それが人間の有り方の深淵を、覗ってしまった人の精神が画面に立ち上っている。
久々に絵にやられた。こうはまでは描けない。まだなのか、最後まで描けないのか。絵はやはり才能なのか等などどうでもいい事をふつふつと思う。ついつい比較して自分を考える。まだまだ、私絵画に専念できない自分がいる。私が描いているのは絵であって、画面であって、人間ではないという事を、つきつけられた。水彩画というものの、行ける先はまったくに深い。人間の底から立ち上る画面を表現するような事が出来るのだ。実はその前に、現代みずえの会という、大原さんの教室展を見た。なかなか良い絵が並んでいた。良い絵がある事はあったのだが、まだ良い絵であって、絵が人間でない。ここが私の勝手な見方かもしれない。この会の良質な所は上手な絵を描くために、描いていないと言う所だろう。上手になりたい願望が無いだけ、気持ちの良い展覧会という事か。